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外国人に難しい日本の建前は日本人にも難しい

日本暮らし

私は日本生まれの日本育ちのくせして、日本の常識だとかマナーに相当疎い。長い間派遣社員で働き、正社員になっても外資系企業で働き、アメリカ人と結婚という道を選んで来たから、知るべきマナーを知らずに生きてきてしまったのだろうか。

身内ならお香典は欠かせない

我が家は父親が亡くなった時、本当に身近な家族だけで家族葬を行った。母親と父親の兄弟姉妹は全員がかなりの高齢だったから、父親の葬儀を終えてから、父親が亡くなったことを周囲に事後報告をした。

母親は一人ひとりに電話をして父親のことを伝え、「連絡はしたが、香典は不要である」とはっきり全員に言っていた。しかし、驚くことに数日のうちに次々と香典が現金書留で届いたのである。

私は母に、「もし、自分が香典は要らないからね」と誰かに言われたら香典を送ろうなんて全く考えないだろうと母に話すと、「そう言われても、送らないわけにはいかないもの」と言うのである。

友人とか、知り合いならまだしも、身内であれば葬式に行かなくても、香典くらいは送るものらしい。それでも母親が電話で親戚に、父親のことを電話連絡した時、香典が不要だと伝えたのは本心から言っていたのだという。

この話を聞いて、私はやっぱり日本の風習というかマナーは、「本気で良く分からないな。」と思ったのだ。

遠慮を理解するのは難しい

電車に乗っている時、いつもではないが私は高齢者の人に席を譲ることがある。明らかに足がふらふらしているような人には立って、「座ってください」と席を進めるが、ふらふらしているわけでなければ、私は座ったままの状態で相手に「座りますか?」と聞く。

相手が「大丈夫です。」と返してきた場合、私はそれ以上座席を勧めることはせず、そのまま座り続けるのだが、もしかするとこの日本社会では1回目は断り、2回目勧めてくれたら座ることにしている人がいるだろうかと考えてしまった。

しかし、だからと言って私は座席なんかのことで押し問答はしたくない。見知らぬ人からの小さな親切でも、出来る限り1度目のオファーで受けて欲しい。席の譲り合い押し問答などはすっとばして、日本人の遠慮深い方々にも親切は初めから素直に受け取って欲しいと心から思うのである。

「いいよ」というNG

そもそも私は昔から、人の言う言葉を言葉通りに受け取ることが当然だと思っている。建前で「いいよ」と言われていたことが、本当は「ノー」や「NG」かもしれないということを理解する感覚は欠如している。

私自身の家族からも、そういう傾向があると言われているから、「あんたは日本人と結婚しなくてよかったよ。」と言われているくらいだ。私は日本人の嫁は務まらないと太鼓判をおされているのである。

こんな私に嫌気がさして、私と関わらないように生きる人たちも世の中にはいるのだろうが、それでも私という人間を好きになり、友人になってくれた人達が日本にだって沢山いる。こんな私だが、私には友人が多くいる方だと思う。

日本の奥ゆかしさみたいなものを私は持っていないし、一部の人からは常識外れと言われても、私は裏表は少ない方だと思っている。だから実直な人や、おおらかな人とはかなり相性がいいのではないだろうか。

私は、分かりづらいメッセージを送ってくる人の期待には応えられないので、私を苦手と思う人がいてもそれはどうしようもないことと諦めることにしている。そもそも、相手の期待を裏切っていることも気づかないまま物事が過ぎてしまっているのだから仕方がない。

引っ越しのご挨拶

私は引っ越しをした時には、都心のマンションだろうが隣近所に挨拶に行く。今どきそいう言うのは必要ないという人も居るが、私はちょっとしたお菓子を持って隣の部屋の人位には挨拶に行く。

数年前に新しい部屋に越した時、私はお隣さんへ挨拶に行き、お菓子を渡そうとするとお隣さんは真剣な顔で、「本当に気を遣わないで結構ですから」と言った。私は、相手が本気で「お菓子など要らない」と言っているのかと思い、そこで茫然と固まってしまった。

しかし、私が紙袋を手につっ立っていると、「では、折角ですから」と手を伸ばしてきてくれたので、無事お菓子を渡して退散した。この場合、私が「いえいえほんの気持ちですから」と、再度押すべきだったのかもしれないが、なぜそんなに回りくどい寸劇が必要なのだろう。

私は日本には日本の良い所が沢山あると思っているが、この手の寸劇はどうも苦手だし、理解も出来ない。日本も分かり易く、「どうぞ」と言われたら、「ありがとう」若しくは「遠慮します」というようなやり取りが主流になってほしいと心から思うのである。

カタカナ苗字の恩恵

引っ越し時の微妙な空気を生んだお菓子受け渡し経験のように、ちょっと気まずい時、私は自分の苗字に助けられている気がする。私は苗字はアメリカ人の夫の苗字に改名したから、カタカナ苗字なのだ。それで、「この人はちょっと普通の日本人ではないから仕方がない」と思われればいいと思っている。

私自身は生粋の日本人であるが、日本の常識が欠如しているし、苗字がカタカナで本当に良かったと思う。仕事をしている時にも、周りの歩調を無視したような言動に対しても、この苗字によって非難されることが少なかったというか、諦められていた気がする。

私の様々な言動に対し、苗字がカタカナであることで、「○○さんは仕方ないね」とまとめてくれるのだ。しかし、それは「あの人は外国人だから仕方ない」ということとまるで同じものなのである。

決して良い意味ではないのだろうが、私のようなズレた日本人が日本で楽に生きるためには、カタカナ苗字は実に巧妙な緩衝材となって、周りにいる多くのタイプの人との関係を助けてくれるのだ。

外国人には理解不能な建前

私は一応生粋の日本人だから理解に苦しむとは言っても、日本文化の建前や、遠慮という言動に一定の理解を示すことはできる。それに、それが存在しているということも重々に理解している。

しかし、外国育ちの外国人にとってはこの日本の建前文化は全く理解できないものだろう。

私は日本で10年近く暮らしたような外国人家族を沢山知っているが、その一家族が日本に暮らして早い段階でご近所さんと仲良くなったと思っていたが、それは建前で、実はまったく仲良くなってなかったと数年経ってから気づき、本当にショックだったという話を聞いたことがある。

例えば、友人はそのご近所さんに本気で家に遊びに来てと誘い続けて、相手も「ぜひ」と答え続けたが、「この日はどうだろう?」と具体的に誘うと、常に相手は用事があるのだと、会合は結局実現しなかったということである。

このような経験を通して、日本では至る所で、「建前」が蔓延しているのだと納得したのだそうだ。

日本文化をひっそり学ぶ外国人

日本は日本人に対して厳しく、「これでは駄目ですよ」というケースになる場合も、外国人だと「もう、これでいいですから」と大目に見て、ルールを説明することなく終了することも多い。恐らくその場合、対応している日本人が外国人を相手に好感を持つことはあまりないだろう。

そういう点から見ると外国人に対し、少し不憫だと感じることがある。学びの機会を失っている上に、この先も「こいつは。。。」と思われ続けることになる。その場合、「どうぜ日本のルールは分からないだろう」と見下されている状態になるのではないだろうか。

そういう外国人の体験する負のルーティンを断ち切るのに、実は外国人同士の助け合いが存在する。日本に暮らす外国人同士が、日本人が嫌がることについてお互いに教育し合い、日本文化を尊重したり、またやり過ごす為の知識を蓄えているのだ

外国人全員がそのような学びの意思があるかといえば、そうでない場合も多い。しかし、私の周りに居る欧米諸国出身の外国人の人々は、日本でのやり方を尊重する人が多かった。

こういう学びは外国人の人たちが日本で暮らすためにもすごく役立つし、日本文化に対する理解を持つことで日本人も外国人を受け入れやすくなると思うのだ。

日本はこの先も人口が減る一方だ。だから、外国人と共に暮らすことを考える必要を考えても、建前は最小限にしてはどうだろうか。私のように建前を汲み取れない日本人にとっても混乱は少なくなる。

これからの日本社会には、古き良き日本文化を残しつつも、もっとストレートなやり取りをどんどん取り入れて欲しいというのが私の希望である。

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