一緒に働きたい信頼できる人とはどんな人だろうか?
以前は、すごく優秀な能力のある人と思っていたが、プロジェクトやチームを任されるようになって考えが変わってきた。
頼れる勘のいい同僚
信頼できる同僚とは、出来るか分からなくても勘を働かせ、出来るように努力して挑む人達である。
私が会社で働き、途方もない量の仕事を長期で抱えていた頃、共に働く同僚と一緒に現実逃避をすることがよくあった。なんの役にも立たない現実逃避だが、お互いのガス抜きとして途方もない話をする。
私たちはよく”働きアリの法則”について話した。
働きアリの法則とは、よく働くアリが2割、普通に働くアリが6割、働かないアリが2割に分かれるという理論で、人間社会でも反応スピードが早い社員に仕事が集中し、働かない2割の社員が発生するという考えである。
先日まで私が働いていた会社でも、よく働く人と、そこそこ働く人と、あんまり働いてない人の3分類の社員がいた。
しかしその比率は2:6:2ではなく、私の感覚では「1:6:3の割合じゃないのか?」なんて話をした。私とその同僚は、間違いなくよく働くグループに入っていた。
なぜそう言い切れるかというと、お互いに「ソレ自分がやります」と自ら申し出て仕事を片付けていたからである。
働きアリの法則による2:6:2の分類は仕事が出来るとか出来ないとかではなく、よく働くか働かないかで分ける。
よく働くグループの人は、プロジェクトが始まる時、問題が発生した時に会議をすれば、自ら自分の役割だと思ったものに対し「私がやりますよ」と手を挙げる人たちだ。
自分が一番適任なのだからやって当然と思う輩である。
しかし、そういう場で「この人が明らかに適任でしょ?」と思う場面でも、その本人が手を上げないことが結構あるのだ。
私はせっかちで、時間がもったいないと思うと、沈黙が続く前に「これは○○さんに対応してもらうのがベストじゃないですか?」と発言する。
誰の仕事なのか判断がつかなければ、あぶり出し作戦で、大体の当たりをつけて「Aさんか、Bさんのところが適任じゃないですか?間違えていれば適切な方を教えて下さい。」と、さっさと片付けてもらえるように働きかける。
こういう風なやり方を嫌う人もいるが、私は「お前も給料もらっているんだから働けよ」とボールを投げていた。
担当するべき人が居るのにもかかわらず、自分の管轄の仕事じゃないのに、「それはじゃぁ、私がやりますよ」とついつい引き受けてしまう人がいる。
周りには「あいつは仕事出来るし、仕事好きなんだからやらせておけばいい」と言う人がいるが、私は一人に負荷が掛かるのはリスクでしかないと信じている。だから仕事が適材適所に落ち着くようによく口出しもしていた。
私は自分の管轄の仕事なら人に言われなくても先に自分から手を挙げて引き受けるようにしていたので、皆も同じようにするべきだと思い、私は口出しするようになった。
本人が自分で名乗り出ないのなら引きずり出して決着をつけるしかない。そういうやり方を嫌がる人もいたが、趣味でカルチャースクールの催し物のディスカッションしているのではない。
いつまでもグダグダしてても進まないなら、言葉を選んで上手く引きずり出すことも必要なのである。
普段から仕事を沢山抱え、これ以上仕事を増やしてほしくない気持ちは皆同じだから理解が出来る。
しかし、忙しいからと言って、知らんぷりは絶対によくない。
引き受ける時に「少し猶予が欲しい」とリクエストするのは別になんの問題も無いが、忙しいからといって自分の仕事を黙ってやりすごし、出来る限り自分が対応するのを先伸ばしする姿勢を私は早急に考え方を改めて欲しいと常日頃思っていた。
私の働いていた職場には日頃からだらだらと仕事をし、「この仕事は難しすぎる」と言って降ってくる仕事を選り好みする社員が、首にもならず、降格もなく、減給もなく働き続けていた。
そういう社員が居ると「あいつがそうなら、自分だってやらなくていいじゃないか」と考える社員が他にも出てきて悪循環だった。
働かない社員が増えると、もくもくと仕事をする社員の仕事がどんどん増えてしまい非効率で属人化した仕事が会社に増えるのだ。
そういう状況で長年働いた私は、「会社全体の1%-2%の首切りが毎年あっても良いじゃないか!」と考えるようになった。
会社も私も慈善事業をやっているわけでもないのだ。選り好みして働かない社員がいたら、首が切られても当然だろうと思い始めたのである。
そしてこう考える社員が増えた先には、真面目に仕事をする社員の社外流出がある。
脅しのようだが全社員に対し、ある程度頑張って働かないと仕事を失ってしまうという恐怖・緊張は必要なのじゃないだろうか。
それで各社員が真面目に働く環境が出来る。自発的な働き方ではないという意味で理想的ではないだろうが、各社員にとっては公平で、ある種健康的な労働環境が生まれるのではないかと思う。
「なぜ日本の企業は社員を解雇するのが難しいのだろう」と常々疑問に思っている。
安定した雇用を守るため、政府が企業に解雇をさせないようなルールを敷いているからだが、会社の業績が悪い時でなくとも、毎年1-2%程度の解雇を許すことで雇用の循環が生まれると思うが、私の勉強不足なのだろうか?
今の日本の社会は、社員をなかなか解雇できない。
それゆえ正社員の雇い止め状況が発生し、雇用の悪循環が発生しまっているのではないだろうか。つまりどの会社でも今より柔軟に解雇が出来るようになれば、その空いたポジションへ正社員の雇用が生まれ、雇用の活性化に繋がらないのだろうか?
雇用についてのあるディスカッション番組を見た時に、私と同じような意見のパネリストがいたが、パネリストの中には「出来ない奴は何処にいっても結局出来ないから、その人の雇用を守らなければいけない」と言っていた。
それも一理あるとは思うのだが、私が一番問題だと思うのは、”出来ない奴”ではなく、仕事を”やらない奴”なのだ。
どうしようもない奴の中には”やらない”よりも質の悪いのもいる。
少々複雑な仕事だからと、「難しい仕事だから、適当にやればそれでいいんだよ」と言って適当に仕事する奴がいた。そんな風に仕事をされると最悪、客先からクレームを受け、報告書を作って会社として謝罪しなければならない事態に発展したりする。
出来るのに”やらない奴”、”嘘をつく奴”、やりたくないとか、難しすぎるとか言って”逆ギレする奴”、そんな社員は即刻解雇して欲しいとつくづく思う。
人はそれぞれである。
足の速い人もいれば、遅い人もいる。同じように仕事が早い人もいれば、遅い人もいる。
個人の能力の違いは仕方のないことだし、それぞれの力量ベースにベストを尽くせば問題ない。だが、能力があるのに、やりたくない仕事をやらない社員、やりもしないで「難しすぎて出来ない」と言う社員は本当にどうにかしないといけない。
私が働いていた会社の働きアリの法則比率は、よく働く人、まぁまぁ働く人、働かない人の割合が1:6:3だったが、そうなってしまった理由のひとつは、そういう逆ギレ社員を放置し、「あいつらに頼んだって仕事が出来ないだろ?終わらないだろ?」と諦めていた管理職が多かったからだ。
その管理職者にとっても、”やらない奴”社員はもう、どうすることも出来ないものと諦めるしか選択肢が現状ないのかもしれないが、そんな輩が放置されている状態で、残りの社員が協力しあっても効率的に仕事を終わらせることは出来ないのだ。
よく働く社員が長年努力を続けても生産性はたいして高まらず、いい雰囲気の職場作りなんて不可能に近い。
だからこそ「難しいことでも、時間をかけてでも習得してやっていこう!」と、取り組める人で職場を作っていけるように、毎年一部を解雇出来るルールがあってもいいではないか。
やる社員が増えれば各会社の能力が上がり、チリツモで日本社会の経済力の底上げが起こるのではないだろうか。
私の意見に反対する政治家先生には、そんな”やらない”社員の受け口として、何十人でも何百人でも、彼らを自宅のお手伝いさんととして自費で雇い、彼らの雇用の安定を提供して欲しいところである。
いいかげん、資本主義の自由競争社会に押し付けるのは止めて欲しい。
キャリアを築くための働く心得
- 出来る出来ないに捕らわれず、まずは努力して取り組もう
- 人より自分のスキルが劣っていても継続努力で成長できる
- 怠け者の社員と自分を比較するのは無意味なことだと知ろう