日本には以心伝心だとか、空気を読む文化があるが、人々は一体どれだけ言葉を交わさずに分かり合うことが出来ているのだろうか。
確証のない以心伝心
私はそれなりに周りの人と、当たり障りなく人付き合いができていると思う。仕事でなければ他人の言いにくいことについてド直球なことは言わないし、それなりに上手くやっていると思うのだ。
他人に話しかけることは苦ではないし、相手が年上だろうが社長職だろうがホームレスの人だろうが、同じ人間であることには変わりないからと、今まで沢山の人とコミュニケーションを図ってきた。
しかし実際の所、私には言葉足らずな部分がある。それでも日本社会であれば、それほど問題を感じずに周りとの関係を繕ってやってきたが、自分の伝えたかったことを、どれだけ他人にきちんと伝えてこれたかを考えると、私は自信がなくなってしまった。
日本社会では多くの人が完全な情報を得ずとも自分の経験則で、その情報を補い解釈をしている可能性が非常に高いのだと改めて気づいた。実際にこの社会は言葉足らずでも多くのコミュニケーションが成立しているように見える。
相手に伝えたこと、また人から聞いたことについて、内容を間違いなく正しく理解できているかは、実は確かではないのかもしれない。
日本文化にはもともと余白や間を美とする文化があり、「多くを語らず」ということも良き文化の一部ではないだろうか。そういうことだから、コミュニケーションに誤解が生じても許される文化ではないだろうか。
察することが無い人
私の夫はとても勉強ができて、頭の回転の速い人である。しかし、人の気持ちを察することに関しては驚くほどに能力がない。夫は、「以心伝心」という日本の文化を知った時から、私に「言葉にしなければ、気持ちを理解してあげることは出来ない。」と宣言した。
しかし、私の周りには気持ちを察することが出来ない人が殆ど存在しなかったから、夫のことも軽く考えてしまっていたのたが、それは大きな間違いであったのだ。
当たり前に想像がつくだろうということでも、夫は私が声にしなければ、私が当然と思うことさえ、その思いは全く通じていないのである。その上、本当に本人には全く悪気はないのだからこれまた厄介なのである。
これが最愛の人でなかったなら、「この人なんなの?」と思って、長く付き合うのは難しかっただろう。私の場合、結婚という枠組みがあったからこそ、長い間この「理解してもらえない」謎に取り組めたことは間違いない。
当然と思うことも声にする
すでに私達夫妻は出会ってから20年近く経過している。そして改めて最近、「あ~ここまで気持ちが通じていなかったか。」と思うことを実感した。
我が家は英語でコミュニケーションを取るのだが、私は英文法にちょいちょいケアレスミスをする。それに対して夫はイライラしながら、「いつまで同じ間違えをするんだ」と私に注意をするのだ。
私だってミスは減らしたいし、直したいと思うのだが、癖になってなかなか改善されない部分があるのは確かである。それに会話が盛り上がると、どうしてもうっかりミスが増えてしまう。
私がそういう部分について、「反省しているし、改善したいと思っている」ってことを最近都度、言葉にするようになった。そしたら今までイラついていた夫が、「そう思ってくれているんなら、別にいいんだ」と、「スッ」と彼のイライラが消えたのだ。
私の英語のことでイライラされると、私だって頑張っているんだと、こっちもイライラしてしまう。しかし、当たり前に分かってくれているだろうという私の気持ちを声にすれば、喧嘩に発展するどころか、お互いの気持ちが温まることを今更だが気づくことができた。
一定数いる「察せない人」
実は夫のように、「言葉にしてもらわなければ察することが出来ない人」というのは結構世の中に居ると思う。日本社会にも数は少ないが存在しているし、欧米諸国にはその人数はもっと多くいるように思う。
日本社会では子供の頃からの団体行動に対する美学が存在し、その団体行動することにより、子供の頃から一定の察する力が備わるような気がする。
多くの人が団体行動から得た察する力を持って出来たのが今の日本社会だろう。多くの人がその察する力を持っているからこそ、言葉少なめのコミュニケーションが成立しているのではないだろうか。
しかし、日本人でその察する力を持っていない人は、日本社会では上手くやれないケースが多々あると思う。そしてその多くの人は「面倒な人」にカテゴリーされるような気がする。
日本の会社で求められる人
日本社会の会社で長年仕事をしてみて感じたことだが、「察する能力」は必要であると思う。
同僚と共に仕事をするのに、仕事を通して似たような感覚を身に着ける必要がある。そのうえで、色んな言葉を端折って仕事をこなす「同調性」が求められるように思うのだ。その能力が欠けていると、「感が悪い」とか「使えない」と言われる可能性が大きい。
私たち日本社会でゃ言葉で丁寧に1から10まで説明することに慣れていないし、相手の「察し」に頼ることが多い。それに「技は見て盗む」という文化とも関係しているかもしれない。
言葉足らずの状況でも、おおよそ正しい検討をつけてチームメイトと仕事が出来れば問題ないが、この「察する能力」というのはなかなか直ぐに身につくものではないから厄介なのだ。
この「同調性」と「察する能力」というのは、子供の頃からの日本の教育の団体行動から培われた物なのかもしれないなと思うのだ。
アメリカで不要な「察し」
実はアメリカ社会では「察する力」というのはあまり求められない。だから夫も察せないことで困ったことは殆どないのだ。強いて言えば私との関係以外は問題ない。夫は言葉での的確なコミュニケーション能力が高い。だからこそ、私の文法誤りについてイラついたりするのである。
明確な言葉によるコミュニケーションの方が重要度が高いのはアメリカだけではない、他の国でも同じように明確な言葉によるコミュニケーションの方が必要になることが多い。だから日本人にとって海外での生活は、その部分ストレスの高いものになる可能性がある気がする。
海外で言葉にせずして、何かを理解してもらうということは殆ど期待することはできないのだ。分かり易いと言えば分かり易いが、全てをきちんと言葉にすることは日本人には難しいことじゃないだろうか。すくなくとも私は、何度もこれで痛い目を見ている。
当然だと思っても伝える
もし、コミュニケーションがうまく取れないなと思う人と出会ったら、その人に「察する能力」が欠けていると思えば上手くいくこともあるかもしれない。
面倒ではあるが、1から10までを説明することをすれば、意外にスムーズにものごとが進む可能性は大いにある。
この先、日本社会では更に外国人労働者が増えることも想定されるし、彼らは日本社会の「団体行動から学んだ察し」を持ち合わせていないだろう。しかし、「察する能力」が欠けていても、「仕事をする能力」は高いっていうことだって大いに期待ができることは心に留めておかなければいけない。
たとえ同じ日本人であっても、やっぱり同じように「察する能力」が欠けているだけで、お互いにイライラする関係になっている可能性もある。だから、まずは分かり合えないと思ったら全部気持ちを言葉にすることで問題解決ができるかもしれない。
少々面倒でも思ったこと全てを丁寧に言葉にしてみれば、意外に物事はスムーズに進むかもしれないなと思うのである。