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キリスト教会はキリスト教と関わる人の集まり

日本暮らし

私は高校卒業までキリスト教と全く関わりなく生きてきた。神社やお寺には観光か、初詣に行く程度で、私は宗教というものに殆ど関わらずに生きていた。どちらかと言えば、「どの宗教にも深くかかわりたくない。」と思っていたのに、キリスト教は今、私の宝になっている。

犠牲を払って救う神

2025年のイースターは420日だった。イースターとは、神の御子であるイエス・キリストが誰もが天国に入れるようにと、全人類の咎(とが)の代償を支払うために罰を受け、十字架で死んで、3日目に甦った復活を祝う日である。

人類創造後にアダムが咎を負って以降、人には死の代償が生まれた。人を死から救うためにイエス・キリストの咎のない人生と死と復活があり、それゆえに「イエス・キリストは死に打ち勝った。」と言われている。

イエス・キリスト以外に、天国に受け入れられるほどの得を積める人は存在しない。そのために咎がひとつもないイエス・キリストが犠牲となり、人が天国に入る道ができたのである。

それでは、人は何をしなければいけないかと言うと、「イエス・キリストが神の御子であり、人の為に苦しみながら死んで、3日目に甦った自分の救い主だと信じること」である。これは簡単なようで、実は意外に難しい。それは、多くの人が出来るだけ真面目に生きているからだと思う。

多くの人が、自分の誠実さで天国に行けると思いたい。しかし、その天国に入れる基準人によってばらつきがあり、それは「こんなもんでいいだろう。」という具合ものだと思う。警察に捕まらなければ天国に入れるというものでもない、世の法律は人が作ったもので、神様が作った基準ではないからだ。

キリスト教の教会に集う人

キリスト教の教会は、だいたい毎週日曜日に礼拝をする。そこに集まるクリスチャンとは、イエス・キリストが自分の救い主であり、乙女(処女)であるマリアより生まれ、苦しんだのち十字架で死んで葬られ、3日目に生き返ったことを信じた人達である。

いくら得を積んだところで自分の力では天国に入れないことを認めた人達だが、不思議なことに投げやりな気持ちになってクリスチャンになるわけではない。むしろ自分は、救われるに値する者であることを知って、喜びと希望を与えられた人達なのだ。

ではなぜ、得を積む意味がないのにクリスチャンが善い行いを心がけるかというと、自分はすでに神様によくしてもらったのだから、悔い改めて良い行動をするようにと教えがあり、また自分がしてもらったように、周りの人に良くしてあげるようにと勧められるからだ。

キリスト教の神は、自分を犠牲にしてまで人を救う神であり、私達の父、きょうだい、そして友である神として崇められ、自分と親しい関係にある神ということになる。

しかし、教会に集う人でもイエス・キリストが救世主で復活したことを信じていない人もいる。答えを探し求めて、教会で礼拝に参加する人もいるが、教教会はそんな人達も歓迎するし、無理強いしてクリスチャンにさせることもない。ノンクリスチャンのまま10年以上教会に通う人も存在する。

教会のコミュニティ

「人は1人では生きていけない。」というが、私はその通りだと思う。人と関わらず生きる方が、煩わしくなくていいという考え方も聞いたことはあるが、私は面倒なことがあっても、多くの人と関わりながら生きていきたい。

私はクリスチャンになってから、友人がすごく増えた。毎週日曜日には教会で沢山の人と顔を合わせるから、友人が増え続ける。日曜日に通う教会を変えたとしても、それまでの教会に通う友人との関係も続くので、新しい教会に通うことになれば、更に友人が増えることになる。

教会を変えることは実際たまにある。引っ越すからという理由もあるが、そのほかに、教会の方針が自分の考えと合わないからという理由もあれば、もっと聖書について学べる教会を求めるという場合もあるし、子供の集まりが盛んな教会を求めるために教会を変えるということだってある。

教会に宣誓を行い正式に属している場合だと、教会を変えるのは大ごとなのだが、それぞれの事情があってのことなので、教会を変えることは珍しいことではない。

喜び悩みを打ち明ける仲間

教会に集まって日曜日礼拝に参加する人達は、週中にスモールグループと言って数人で集まる人も多い。1年を通し同じメンバーで週中に集まって聖書勉強会をするのだ。日曜日の礼拝は、牧師の説教を聞くことが中心だから、スモールグループで聖書の言葉を自分の生活に当てはめてディスカッションをする。

共に聖書を読んで、その内容についてディスカッションをする。そうして喜びも悲しみも、怒りを含め、お互いの日常的な悩みを打ち明ける場所を得る。自分には咎があり、他人の助けが必要だと認めた人たちの集まりだから、結構あけっぴろげに自分のことを話す人が多いのだ。

お互いを信用して、プライベートなことも話すので、必然的に集まる人同士は親密になる。同じスモールグループに属してなくても、教会で仲良くなった人とは、スモールグループで話すのと同じように、心の内のことも話すから、そこでもお互いに親密な関係の友人になる。

重荷を負った人の場所

この世には、楽しいことも沢山あるが、辛いことだって沢山ある。今の社会では、人とのかかわりが薄くなり、虚しさを覚える人も多いのではないだろうか。そんな時には、キリスト教の教会に足を運んでみたらどうだろう。

人を愛する神様のこと、その神様を拠り所にして生きる人達と関わりを持ってキリスト教にことを知ってみる価値はあると思う。クリスチャンは神様ではないから、教会に集う人の言動にがっかりさせられることは普通にあるが、神様は信頼できる存在だ。

教会に集うもの同士でイザコザもあれば、スキャンダルだってある。だからといって神様に失望するのは的外れだ。人はおろかだし、無意識に間違いだってするから救い主が必要なのだである。それはクリスチャンになった後でも同じなのだ。

そんな状況でも教会という人の集まりは、神様を中心として周りと関係を作り、愛と優しさと時には厳しさを共有して生きていける場所だと思う。

教会の礼拝

教会の日曜日礼拝は1時間10分位~1時間半というのが標準的な所要時間だろう。朝礼拝をする教会もあれば、昼礼拝もあり、夜礼拝をするところもある。教会によっては1日に2度、3度礼拝をする。

礼拝には司会進行が居て、「立ってください。」、「座ってください。」それに、「祈ります。」と会衆に声を掛ける。「祈ります。」と言ったら会衆は、目を閉じて頭を下げるが、「自分は祈りがわからないし、祈りたくない。」と思ったら他の人と同じように祈らなくてもいい。

しかし、その間にお喋りをするのはマナー違反だ。祈らないなら静かにその時間をやり過ごすようにする。説教の前には短い祈りや、悔い改めの告白などもあり、賛美といわれる神にささげる歌を数曲歌うこともする。

説教の始まりには、その週の聖書個所が読まれ、30~40分程度牧師の説教を聞く。興味が持てないと、眠くなるかもしれないが、殆どの教会は礼拝中に飲み物を飲むことを禁止していない。その会場が飲み物持ち込み禁止でなければ、コーヒーを持って礼拝に参加しても良いだろう。

説教の後には、聖晩餐といわれるキリスト教徒の為の食事がある。イエス・キリストの犠牲とあがないを再確認するための食事であり、ブドウの飲み物少しとパンのかけらを教会が洗礼済みのクリスチャンに与えるものだ。

礼拝が終わる前にも神様に捧げる歌を歌い、神様への祈りを捧げ、牧師が皆に祝福を与え、礼拝は終了となる。

イースター礼拝でも同様の礼拝が行われた。ただ、イースターやクリスマスは特別イベントだから、音楽がいつもよりも気合の入ったものだったり、通常とは違う催し物が追加されたりする。

少しでも興味があるなら、誰でも教会に足を運んでほしいと思うが、カルト系の宗教団体は実際いくつも存在する。だからここに幾つか私の知る東京都心にあるキリスト教会を挙げておこう。(アイウエオ順)

何かを求める心が生まれたら、少しでも興味が持てたらぜひ足を運んでみてほしい。

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