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勝つ能力とキャリアを育てる回り道 |高卒女のキャリアブログ

キャリア一般

私の最終学歴はというと、高校卒業である。(進学率がかなり低い高校)

進路は空白状態で高校卒業し、私はアチコチでアルバイトをして働きながら小金を貯めてアメリカでのホームステイで渡米し、アメリカで現地発着型のキャンプツアーに参加した。

そんな経歴の私でも、今は外資系企業の専門職の仕事に就き、年収1千万を超える「キャリアわらしべ長者」になり上がった。会社では部下もできたし、プロジェクトを進めるための小さなチームを2個管理するようになった。

PCスキルと欧米で通用する英語でのし上がる

自分を含め、家族も友人も、誰も私のこのキャリア未来は予想しなかった。

私が高校を卒業した頃、周りにいる大人たちは私の将来を相当心配しただろう。しかし、結果オーライの棚ぼたキャリアだが、私は時代に合ったスキルをたまたま身に着けて上昇気流に乗ったのだ。

一番の付加価値、今のキャリアを開拓できた理由はたぶん「生きた英語」にあると思う。

もちろん「データアナリスト」という専門職スキルがあったからこそ今の会社員生活があるが、それなりにデータを扱えるだけの人材なら専門に勉強した人達が日本にも海外にも山ほどいる。

しかし、日本には日本語と英語両方を自由に使えるデータハンドリングできる人材が少なかったのだ。

困らないレベルの英語読み書きが出来ることと、会議で相手とやりあう英会話力を持っている人は少なく、加えて自分の意見を発言して実行する勇気のあるデータアナリストっていうのが非常に少ない。

イエスマンは意外と評価が伸びない

働いていて感じたことだが、YESマンを求めない上司が結構いる。

そんな上司には、「こんなやり方もりますよ」「効率化を考えたら、こっちもいいですよ」と提案して、「柔軟につっかかる向上心あふれるアプローチ」はなかなか受けが良かったらしい。

しかし、上司と自分の意見が食い違った時、話し合いをした上で上司がコレと決めた方向へ、たとえ自分の意見とは違っても、「YESサー!」と決定に従って進む必要があるのだ。

こういう時に未練がましく、のらりくらりと自分の案を引きずるのは大NGで、上司と信頼関係が築けなくなるから決定が下ったら、潔く前に進むしかない。

こういうやり方を通して、私は欧米文化を取り入れた英語力とデータスキルを使って、「キャリアわらしべ長者」になったのである。

キャリアの道を開くスキルを養う

私のキャリアの道を築いた一番の道具は欧米文化を取り入れた英語力とデータスキルだが、必要なのはやっぱり「地道な努力”」だろう。

地道に真剣に人に習ったことを基礎にして、自分でも努力をしてトライアンドエラーで時間をかけて習得すれば力が付く。

エラーである失敗からの学びは進化するための大切な過程で、失敗から学ぶことは本当に多いのだ。

20年位前から英語は私の第二生活言語になっている。英語でメールを書くのも、プレゼンをするのも、喧嘩するのも殆ど困らなくなった。

昔の私を知らない人からは「帰国子女なんですか?」と質問をしてくる人もいるけれど、私にそんな輝かしい過去はない。

しかし私には大変で、面倒で、厄介な経験が山ほどある。おかげで話題には事欠かない。大変な思いをして得た経験は間違いなく、消えない自分の財産となるのだ。

将来のないぐうたら高校時代

私は高校生だった頃に勉強した記憶がない。教科書とノートが学校の授業中に開かれていた記憶はあるが、何かを勉強した記憶がまるでないのだ。

いつも何か別の事をぼんやり考えたり、居眠りをする相当不真面目な生徒だった。

周りもそんな生徒が多く、私が通った高校は出席日数を満たせば卒業できる学校だったのだ。かなり気楽な学校だったし、私は同じ高校から大学に進学した人がいたかどうかも知らない程である。

高校の授業には英語の授業もあったが、卒業時の英語力は目も当てられない程酷かった。

「This is a pen」位しか言えなかった程度の英語力だ。だから学生時代のテストはだいたい運で乗り切る他なかった。絶対にテストに出る単語を直前に何個かだけ覚えて、あとは選択問題で適当に答えを選んで点数を稼いで繕っていたのだ。

高校卒業時に中学レベルの英語力さえなかった私を知れば、私は多くの人に勇気をあたえられるんじゃないだろうか?

そんな私は学業はからっきしで遊び歩いていたが、高校時代から出来るだけ時間を取ってアルバイトには精をだし、お金を稼いだ。

そうやって私はアルバイト先の先輩から仕事を学び、愛嬌を振りまき可愛がって貰い、若いうちから世渡り上手に年齢関係なく色々な人と知り合いになった。

突然の助言でアメリカ渡米が実現した

高校時代フラフラ遊び回っていたおかげで、年上の友人も沢山でき、色々な人に可愛がってもらっていたのだが、そのうちのひとりが進路のない高校3年生の私へ運命的な助言をくれたのである。

「お前のような奴はアメリカでも行ってみたらどうだ?」と。

その友人は何の責任もなく適当な事を言ってみただけだと思うのだが、私は深い考えもなく「そうかな!?」なんて本気でその助言を受け止めて行動に移ったのだ。

このやり取りがきっかけで私は実際に渡米したことが、現在の私のキャリアのスタート地点だったような気がする。

自分のやりたいことは自分で実現

高校卒業した私は、朝から晩まで羽田空港で国内線飛行機のお掃除アルバイトをしてお金を貯めた。時給は1200円位だったが、4カ月働いたらアメリカ短期滞在の軍資金が出来た。

貯めたお金は40万円程程度だったが、つつましく3か月間アメリカ短期滞在する分としては一応足りた。

「エイビーロード」というリクルート社が発行する海外旅行情報雑誌があって、私はそれで見つけた「アメリカ・サンフランシスコで90日間ホームステイ」というプログラムに申し込んだのである。

今はもうエイビーロードの雑誌は廃刊になり、ウェブサイトもとっくにクローズしているようだが、30年前頃は海外に行きたいと思った人は誰もが本屋に行って、この本を手に取っていたと思う。

個人的には、これも惜しくもインターネットの普及により消えたサービスのひとつである。実際に会社運営をしていないと、本に広告掲載することはない。インターネットの実態のない詐欺というのはこの本には存在しなかったのだ。まぁ、ぼったくりはあっただろうが。

この雑誌で見つけたホームステイプログラム参加に必要だったのは、必要経費の支払いのみである。ビザが不要なプログラムだったから申し込んだ後、私はあっという間に飛行機に乗って日本を飛び出した。

これが私の人生初の海外旅行だったのだが、私の母親は「今まで海外なんて一度も行ったこともないし、英語もろくに話せないのによく行けるね」と言いながら成田まで見送りにきてくれた。

英語圏に住むだけで英語力は伸びない

多くの人が経験していると思うが、アメリカに少し住んだからと言って自動的に英語が話せるようにはならない。渡米後に厳しい現実を突きつけられた私は、多くの時間をホームステイ先の自分の部屋で机に向かう事になった。

ホームステイ先の家族と会話をしようにも、私は何をどう言えばいいのか全く分からない状態で、とにかく「基礎が必要だ」と気付き、日本から持参した中学英語参考書「ニューコース」をひたすら学習したのだ。

誰もが海外旅行すると、「出発前にもっと英語を勉強しておくんだった!」と言うが、私も例外なく「出国前にやっておくんだった~!」と大後悔をしたのである。

このアメリカでの90日間のホームステイの間、中学英語参考書のお世話になって、私はなんとか片言の英語でコミュニケーション出来るようになった。

非常にたどたどしく、やっと一言話せる程度の英語力を得た辺りで私は帰国をしたのだが、この時点では英語ペラペラなんて夢のまた夢であったのだ。

英語を学ぶことの現実

アメリカに行かずとも、日本で勉強すればお金もかからなかったと思うが、私の場合、実際にアメリカで生活をしなければ、「英語を勉強したい」という意欲が生まれなかっただろう。

それに「アメリカに住むだけで英語が上達する」というマヤカシを永遠に信じていたかもしれない。

英語圏で暮らせば自然に英語が話せるようになるなんて、絶対にないと思っている。そして世には色々な英語教材があるが、結局のところ「地道な努力」しか当てにならないと思っている。

外資系の会社で働きだしたときに沢山の元留学生の同僚とも仕事をしたが、英語がペラペラで流暢に話せるという人は実はそれほど多くなかったのが現実だ。本当にペラペラだった人達といえば帰国子女の英語圏で育った人達くらいだったのだ。

何事も楽しむことを忘れない

初アメリカでの90日間のホームステイの間、私は自分の英語力は乏しくとも、観光にショッピングに旅行にと、アメリカ滞在をしっかり楽しんだ。

英語は不得意のままだったが、私は愛想よく挨拶をし、頑張ってコミュニケーションを図って、何はともあれ、初めてのアメリカを存分に楽しみ、英語にくじけず、その後も何度も渡米した。

諦めずに希望をもって好きなものを追い続ければきっと道は開ける。

どんな経験も身になることを忘れずに

私が高校時代から経験したアルバイトは、衣料品店、文具屋、お弁当屋、ピザ屋、レストラン、ガソリンスタンド、カラオケ、ビデオショップ、飛行機清掃業、米卸業の事務と何でも色々やった。

どの職場でも頼れる先輩がいて、責任をもって仕事をするって事を教えて貰った。私は何処でも年少者であることを生かし、年上の人たちに可愛がられることを覚えた。若さも十な分武器となる。

高校生の頃からとにかく金を稼ぐのが大好きだった私は、仮病でバイトをサボることもなく、特に時給が高くなくてもコツコツ働き、自分がやりたいことに使うお金は手にできた。

自分の時間がお金に代わるという制度にすっかり魅了された私は、タンス預金ならぬ、お菓子の空き缶預金をせっせと集め、お金が溜まれば目的の為にどーんとそのお金を使うサイクルを高校卒業した頃から続けていたのである。

家が金持ちでなくても未来は拓ける

良くも悪くも我が家はお金持ちではなかった。もし、幾らでも使える親のお金があったなら、私はきっとこんな風に沢山アルバイトをすることもなかっただろうし、幼少期の頃から有無を言わさず学業に励めと勉強させられていただろう。

私にとって沢山のアルバイトの経験は、社会人として生き抜く武器になったと思う。たかがバイトだが、教えられた通り一生懸命仕事をするのは楽しかったし、何より自分が自由に使えるお金も稼げた。

そして稼いだお金の中から上手くやりくりをして目的を達成することも学べたのである。

高校生の頃私はピザ屋でバイトをしたのだが、店長とピザ作り競争をしたことを20年以上たった今でも思い出す。

私はいつも色々なことに興味津々で、高校の制服スカートの上にピザデリバリー担当者のジャケットを拝借し、ピンクサロンの店へピザの配達にも行った。ピンサロで働いたことはないが、私はピンサロ店内を歩いたことのある数少ない女性である。

今のご時世こんな事はNGだろうが、昔は色々ゆるかった。これも私にとってみたら貴重な体験だ。

高卒でも企業キャリアへの道は作れる

こんな風に色々経験できたことは私にとっては幸運だった。私の学歴は底辺だけれど、他の色々な経験が積み重なり、私の学歴部分を補ってくれているのだ。

王道じゃなくてもいいじゃない!何事も諦めずに希望をもって回り道も楽しもう!

振り返ると、友人の「アメリカにでも行ってみたらどうだ?」の軽い一言は、私の「キャリアわらしべ長者」への道を開いてくれた魔法の言葉だ。

プラプラと遊び歩いた高校生活も、今に繋がる大事なステップだったような気がしないでもない。

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