私は数年前からかなりの鳥好き、インコ好きである。
映画のチケットが余っていると誘われ急遽映画を見に行くことになり、上映中の映画の中からポスターに鳥が描かれているジブリ映画の『君たちはどう生きるか』を見ることになった。
上映情報リストを見てもピンとくる映画がなく、ジブリ映画なら見てもいいかなと思ったのもあるが、やはりポスターに描かれた挿絵の鳥の絵に誘われた部分が大きい。
ここからのブログ記事は映画のネタバレを含むので、ネタバレ内容を知りたくない人はこの先は読み進めないようにして、映画を鑑賞後に改めてこの記事を読んで欲しい。
映画のポスターに描かれた挿絵は「アオサギ」という鳥でなかなかシュッっとした素敵な鳥である。
このアオサギはポスターに描かれているシュッっとした素敵な姿で映画がスタートするのだが、実の姿はソレとは違っていた。本当の姿はアオサギの皮を被った汚いずんぐりむっくりのチビッコおじさんがだったことに少々びっくりさせられた。
映画の序盤でアオサギの口元からぶよぶよの肉がはみ出るシーンがチラチラ見えはじめた時は、「このアオサギは悪魔に取りつかれているのだろうか?」などと考えたのだが、蓋を開けてみればソレはちんちくりんなおじさんの不細工なデカっ鼻だったのだ。
私は「君たちはどう生きるか」という映画が訴える内容というのは、人間の二面性についてではないかと考えた。
アオサギという美しく羽ばたく鳥という姿の裏には、非常に醜い姿を持つ性格の歪んだおじさんが隠れているのだ。アオサギの美しい姿の時には知性と気高が漂っているのに対し、本当の姿であるチビッコおじさんからは卑しさが漂っていた。
大まかな映画のあらすじは、主人公であるマヒトが別世界に入り込むという話である。
マヒトの実の母親の亡き後、マヒトの父親がその母親の妹と再婚し叔母ナツコが継母となるのだが、ナツコが別の世界に消えてしまい、ナツコを助けるためにマヒトは立ち上がり、どこか怪しいアオサギに誘導されマヒトは別世界に入り込むのだ。
そしてその入り込んだ別世界にいる悪者は、人間よりも大きな体を持つインコが牛耳った世界であった。
私たちの世界にいるインコとは可愛らしく、その可愛らしい姿から全く悪を感じることはない。ディズニー映画に出てくるプリンセスの周りには大体可愛らしいインコが飛び回っている。カラフルな小さな体で宙を舞う姿は喜びそのものだ。
そんな可愛らしいはずのインコが、このマヒトの迷い込んだ別世界では悪者となって人間を食べようと徒党を組んでナイフを振り回しているのである。
この物語にはマヒトを助けるためにマヒトと一緒に別世界に入り込んだお婆さんのキリコと、既に亡くなっているマヒトの実の母親ヒミがマヒトを別世界で助けてくれるのだ。
しかしこの助けてくれる二人はマヒトが生きる時代から考えると、別世界の中ではお婆さんであるはずのキリコは50歳程若返って20代になっていて、母のヒミは10代の少女であった。
つまりこの別世界は時間の概念もマヒトが生きる世界とは全く別の概念だったようだ。
映画のストーリーとしては、マヒトが継母のナツコを別世界から現実の世界に連れて帰ることがミッションだったわけだが、マキトが別世界に入り込んだ本当の理由とは、別世界を創生したマヒトの祖先である大伯父が、マキトを後継者として必要になったからである。
マキトの大伯父は別世界の均等をなんとか保ちながらやってきたが、次の者にその仕事を渡す時がやってきたのだと、マキトにその創造者の役割を渡そうとする。
しかしマキトは大伯父に、自分の中にある醜い部分を認め告白して、自分にはその役割が適任ではないから別世界を継承しないとはっきりと宣言するのだ。
大伯父は別世界で創生者として、言い換えれば神として存在していた。マキトは自分は神にはなれないと宣言したのだと私は理解することにした。
私は日頃から人が神となり、全てを司ることは絶対に出来ないと思っている。どんな人でも自己中心的な部分が存在する。聖人のような人にみえても根っからの聖人にはなれないのだ。
私はイエス・キリストという神でありながら人として生まれ、人類を救うためにその身を人の為に捧げた救世主を信じるクリスチャンである。
このイエス・キリストをおいて以外は、徹底的な善と愛と正義である神の心で行動できる人間はいない。人がいくら努力したとこで、全きの善ではない者が世界を作ったとしても、大伯父の別世界の様にバランスは保たせることはできないだろう。
私は、マキトはその真実を子供ながらに最終的にしっかりと認識していたのだと思った。
マキトは一見とても優秀で、良く出来た子供であるイメージを映画の序盤から見せていた。しかし実は内に秘めた怒りや、不満を誰とも共有せずに嘘をつき続ける内面を持って暮らしていたのだ。
マキトとアオサギのサギ男は全く違うように見えるが、実は似た者同士の部分があったということのようにも思える。
叔母のナツコを助けるために、大伯父との話し合いの場へ向かうマキトとアオサギのサギ男はお互いを助け合っていた。お互いに自分の利益の為に助け合うことから始まったが、話が進むうちに彼らの間には明らかに友情が生まれていた。
人は誰でも醜い部分を持っている。その部分をさらけ出し、素で接する友達を見つけ、互いに助け合って生きていくことが出来たら、私たちは神となって生きるよりもずっと幸せではないだろうか?
年齢も、見た目も関係なく、少々嫌な部分がある人とも、私たちは信頼関係を築き、友人として素直になり助け合って生きていくことの方が人として本当に幸せだと思うのだ。
映画は最後、マヒトが別世界を司ることを拒み、別世界が崩壊すると別世界の悪者であったインコ軍団は、マキトや叔母のナツコそれにお婆さんのキリコと一緒に現実世界に移動してくるのだが、そこで彼らは私達の知る可愛らしい空に羽ばたく小さなインコに戻っていた。
私達は日々色々なことを選択し生きている。私たちはその選択が正しいかどうか心に問う事ができるはずだ。しかしその過程を助けてくれる友人は完璧な友人ではないかもしれない。そして自分自身もその友人に対して完璧ではないだろう。
完璧ではない者同士でも、お互いを助け合いながら正直に生きることが出来たら私は幸せに暮らせると思うのだ。
私はこの映画を物事の善悪がつきはじめた年齢くらいから老人まで広く勧めたい。
ビジュアルや立場に囚われて人の良し悪しを判断してしまったり、なんでも自分本位に考えてしまうことを考え直すきっかけになればいいと思う。