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ジブリ映画「君たちはどう生きるか」を見た

日本暮らし

私は数年前からかなりの鳥好き、インコ好きである。ある日突然、夫はアメリカに帰国する友人宅のインコに新しい家が必要なんだと連れて帰ってきたのである。

それ以降、私はすっかり鳥好きになり、ことあるごとに鳥モノに誘われ、トリコになっている。

鳥のポスターに誘われて

翌日に有効期限が迫る映画のチケットが余っていると誘われ、急遽映画を見に行くことになった。近場の映画館の上映中リストをみて、「表紙に鳥が描かれている!」と、興味を持った映画は、ジブリ映画の『君たちはどう生きるか』だった。

ジブリ映画は好きな方だが、やはりポスターに描かれた挿絵の鳥に惹かれた部分は大きい。しかし、この時点ではポスターに書かれたアオサギのクチバシの下にひっそりと書かれたもう一つの顔の存在に私は全く気付いていなかった。

映画が世に出た頃は日本を離れていたこともあり、映画の前情報など一切ないままに映画を見に行ったから、この時点でこのアオサギが普通のアオサギではないことに私は全く気付いていなかったのである。

ここからのブログ記事は映画のネタバレを含むので、ネタバレ内容を知りたくない人はこの先は読み進めないようにして、映画を鑑賞後に改めてこの記事を読んでいただければ幸いです。

ポスター主役アオサギサギ男

『君たちはどう生きるか』のポスターに描かれていた鳥は、「アオサギ」である。ポスターに描かれているシュッっとした感じの素敵なアオサギ姿で映画はスタートするが、本当の姿は、アオサギの皮を被った汚いずんぐりむっくりのチビッコハゲ鳥おじさんだったのである。

映画の序盤でアオサギの口元からぶよぶよと肉がはみ出るシーンがチラチラ見えはじめた時、「このアオサギは悪魔に取り憑かれて何か別の物に変身するのだろうか?」と思ったが、蓋を開けてみれば確かに変身だったのだがソレは、そのチビッコ鳥おじさんの不細工なデカっ鼻だった。

比較的早い段階から、アオサギの皮を被ったチビッコ鳥おじさんの姿になり、以降映画は殆どその姿のまま話が進むのである。鳥おじさんは、全体的にちんちくりんで、性格のひねくれた嫌な奴で、嘘ばっかり言うらしいが、早々に愛嬌が出て来るのだから不思議である。

このアオサギおじさんは、憎まれ口をたたきながらも、自分もマキトの助けが必要なんだと学び、マキトを助けながらストーリーが進む。

逃げ出したい場面になっても、最後までマヒトを支えマヒトがを元の世界に帰るまで、ずっとマヒトと二人三脚で冒険するのだ。「悪い奴に見えても、見た目が悪くても、初めはそりが合わなくたって、いい部分もある奴だっているんだよなぁ」と思うこととなった。

最後の最後までこのアオサギおじちゃんはマヒトに寄り添う親友だった。マヒトは別世界を去った後にこの親友を忘れてしまうだろうが、きっと心のどこかにこの親友と共に得た喜びは残り、マキトの人生の灯となるに違いない。

自分の殻を破り前進する

私は、『君たちはどう生きるか』映画が訴えるものは、今の世界に不満を持ち燻って生きるよりも、自分の殻を破り、歩み出すことを励ましているように感じた。

沢山の不満を持って暮らしていれば、辛いことのない素晴らしい別の世界に行ってしまいたいと思う誘惑を持つこともあるだろうが、現実に向き合い周りの人と協力して生きることを励ましているように思う。

マヒトは大人の前ではいい子で、姿も美しい男の子だった。表向きは従順な子で文句も言わないが、心の中ではあれもこれも受け入れず、それらをボイコットする為に自らを傷つけ、それを他の子にやられたように装い一人の殻に閉じこもろうとする。

実の母が亡くなり、父は新しい妻に亡き妻の妹であるナツコを迎えた。子を身ごもる叔母であり継母ナツコの生家に移住したマヒトがその状況を受け入れられないことは当然ではある。

人は、怒りや不満に向き合って気持ちの処理しながら、学び成長し前に進むべきだと思うが、マヒトにはそういう大事なことを寄り添って教えてくれる人が身近にいなかった。そんな時に、母が自分に残してくれた本を見つけ、それを読みマヒトは、心を動かされたようだった。

マヒトは本を読み、「自分は、どんな風に生きるか選べるのだということ」を知り、ナツコを今は助けなければならないと気づき、自分の殻を破り歩み出すのである。

偏った映画のあらすじと考察

映画のあらすじは、主人公であるマヒトが継母になった叔母ナツコを助けるために別世界に入り込み、ナツコを救うというものである。

マヒトの父親は、マヒトの実の亡き母の妹ナツコと再婚し、マヒトは父と共に妊婦である継母ナツコとの生活を始める。そんななかナツコが消えてしまい、ナツコを助けるためにマヒトは立ち上がり、怪しいアオサギに誘導されるまま、別世界に入り込むのである。

マヒトは入り込んだ別世界でナツコを探し、不本意ながらもアオサギと協力し冒険をする。別世界での冒険を助けてくれる二人の重要人物は、ナツコの家に住むヨボヨボ年寄り集の一人だったはずの若返ったキリコと、亡くなったはずの母である少女ヒミである。

この二人がナツコを救うために試練に挑むマヒトを支え、導いてくれるのだ。前半はキリコが、後半はヒミがマヒトに寄り添い助けてくれるのである。

別世界に存在する悪党は、人間の倍ほど大きな体を持つインコ軍団であった。問題の叔母ナツコはこのインコ軍団のアジトの一角に閉じ込められているのである。

マヒトは叔母ナツコを見つけ助け出そうとするが、ナツコはマヒトと共に逃げることはできなかった。この時、叔母ナツコがマヒトに抱いていた怒りを見せるが、マヒトは「ナツコお母さん」とナツコを初めてお母さんと呼び、このマヒトの一言が優しいナツコに戻すのである。

アオサギやナツコを利用しマヒトを別世界に引き込んだのは、別世界の想像主マヒトの大伯父だった。大伯父は、マヒトにその別世界の主として後継者になることを求めていたが、マヒトは自分には神となるような資格はないと大伯父に断言し、その別世界は終焉を迎えるのである。

終焉を終えた別世界からマヒトとナツコは無事帰還をする。

そして少女ヒミである母と若いキリコの二人は、彼女たちが返るべき世界に帰っていくのである。

マヒトの父親と叔母(継母)ナツコ

マヒトの父親の登場シーンはごくわずかである。知的なビジネスマンとしてスクリーンに現れるが、最後まで映画を見ると父親は間抜けなおじさんに感じる。考えてみれば、繊細な年頃の少年マヒトの叔母ナツコを再婚相手に選ぶことも微妙だが、父親がマヒトに寄り添う場面が皆無なのだ。

日本の父親というのは、いくら立派な父親でも子供に寄り添うなんてことはないのかもしれないが、私自身の父が私の気持ちに寄り添ってくれる人だったらよかったと思うから、マヒトの父親に苛立ちを感じたのかもしれない。

しかし、叔母であり継母になったナツコは素敵な女性である。実は意地悪だったりするのだろうか?とも思ったが、素敵な女性なのだ。だからマヒトの父ちゃんが好きになってしまうのも仕方ない気もするし、慕っていた姉が選んだ男性なのだから、妹のナツコが恋してしまうのも当然なのだろう。

この父が息子のことも、ナツコの事もとても心配し、事業などそっちのけで二人を助け出そうと奮闘している様子を見ると、気持ちを考えて寄り添うことはできなくても、家族を愛する気持ちはとても大きいのだなということは伝わってきた。

パステルカラーインコの悪党軍団

私たちの住む世界のインコとは可愛らしく弱い存在であり、その姿から全く悪を感じることがない。ディズニー映画に出てくるプリンセスの周りにも大体可愛らしいインコが飛び回っている。カラフルなパステルカラーの小さな体で宙を舞う姿は幸せの象徴にすら思える。

そんな可愛らしいはずのインコが、このマヒトの迷い込んだ別世界では悪党となって人間を食べようと徒党を組み、巨大なパステルカラーの体を揺らしナイフを振り回しているのである。そしてこの別世界では彼らは一番の権力者なのである。

マヒトの大伯父が作った世界での悪党がパステルカラーのインコだったのは衝撃的だ。それは私たちが日常的に絶対にインコを危険な対象にしないからである。

このインコは大伯父が別世界に持ち込み増えすぎたということを言っていた。大伯父は自分の作る世界にインコを持ち込み、本来ある姿から変えてしまったのだ。

大伯父は別世界にペリカンも持ち込んだが、死に面したあるペリカンはマヒトに別世界が地獄であるというのだ。ペリカンは食べ物を求め飛び回ったが、海には食べ物が十分になく、可愛い生命体ワラワラを食べるしかないのだと話し、ペリカンの子供は飛ぶことすら忘れると言い死んでしまう。

マヒトがナツコと別世界を抜け出す時、この多くの悪党インコ軍団もペリカンも現実の世界に一緒に移動するのだが、現実に移動すると私達が良く知る可愛らしいパステルカラーのインコとペリカンに戻っていた。

私達がこの世界にあるものを改めて何かをより良くデザインするなんて人間には出来ないことなのだろう。

罪を持つ人間と完全な儀である神

大伯父は別世界で創生者として、言い換えれば神として存在していた。罪を持つマキトは自分は神にはなれない者であると宣言したのだと私は思う。

私は日頃から人が神となり、全てを司ることは絶対に出来ないと思っている。どんな人でも罪を持ち、自己中心的な部分が存在するからだ。聖人のような人にみえても聖人はいないのである。

私はイエス・キリストという神でありながら人として生まれ、人類を救うためにその身を人の為に捧げた救世主を信じるクリスチャンである。

このイエス・キリストをおいて以外は、徹底的な善と愛と正義である神の心で行動できる人間はいない。人がいくら努力したとこで、全きの儀ではない者が世界を作っても、大伯父の別世界の様に結局はアンバランスになってしまうのだろう

マキトとアオサギのサギ男は全く違うように見えるが、実は似た者同士の部分があったということのようにも思える。

叔母のナツコを助けるために、大伯父との話し合いの場へ向かうマキトとアオサギのサギ男はお互いを助け合っていた。お互いに自分の利益の為に助け合うことから始まったが、話が進むうちに彼らの間には明らかに友情が生まれていたのである。

人は誰でも醜い部分を持っている。その部分をさらけ出し、素で接する友達を見つけ、互いに助け合って生きていくことが出来たら、私たちは神となって生きるよりもずっと幸せではないだろうか?

年齢も、見た目も関係なく、少々嫌な部分がある人とも、私たちは信頼関係を築き、友人として素直になり助け合って生きていくことの方が人として本当に幸せだと思うのだ。

私達は日々色々なことを選択し生きている。私たちはその選択が正しいかどうか心に問う事ができるはずだ。しかしその過程を助けてくれる友人は完璧な友人ではないかもしれない。そして自分自身もその友人に対して完璧ではないだろう。

完璧ではない者同士でも、お互いを助け合いながら正直に生きることが出来たら私は幸せに暮らせると思うのだ。

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