自分が体験したことのない楽しみがあってもそれは不幸とは限らない。
そう思えるようになってから私は生きるのが楽になった。
親しい友人が何かをとても良いと言っていたとしても、自分にそれが必要か?とよくよく考えて試すか試さないかを判断して正しい選択をしよう。
こんな風に考えれるようになったのは私の場合、自分が30代後半になった頃からだ。
薬物に関する逮捕ニュースや関連記事を読む度に私は色々と考えさせられる。
私が薬物に関わらずに生きてこれたのは偶然なのかもしれないし、神様が私を守ってくれたからだろうかと思い考える。
私も10代の頃は何でも体験してみたいと思っていた。私は高校生の時に既に飲酒もしたし、喫煙もしてみた。それらがかっこよく見えてしまうというヤングマジックに掛かっていた。
ただ両方ともお金がかかる。私は根っからの貧乏性だし、ケチな私はそれ程好きではない消えものにお金を掛けることが出来ないのだ。それがあったからか、私は運よく泥沼にはまって出られないということにはならなかっただけだろう。
大好きなポテトチップスやスナック菓子の方が自分にとっては必需品で、好きでもないお酒やタバコに使うお金はないと思って、早々に切り上げただけである。
私が高校生の頃はタバコはもっと安かったし、道端には誰でも気軽に買えるタバコ販売機がゴロゴロしていた。そういう緩い時代だったから当時の高校生には相当喫煙者がいたのでないだろうか。高校時代からタバコを吸い始めて何十年も吸い続けることになった人は沢山いるだろう。
私は社会人になってからもアルコールが美味しいと思えなかった。周りが勧めるのでほぼほぼ仕方なく出掛けた時には1杯だけ飲んでいたが自ら進んで2杯飲を注文するようになったのは40代になってからである。
タバコも17歳の頃に数か月軽く喫煙したものの、私の人生には無くていいものなのである。
結局私は40代半ばになった今でもスナック菓子とコーヒーがあれば幸せなのだ。
私は今まで薬物類と一切関わらないようにしてきているが、そこには私がタバコを吸わないことも関係しているのではないかと思う。
私が10代の頃からマリファナは入手できるものだっただろう。というのは私は実際にマリファナを探し求めたことがなく、知らないだけだっただろうと容易に推測できるからだ。
自分が一緒に遊び歩いている仲間にはマリファナや他の薬物をやっている人がいたのを聞いていたし、その人達にお願いすれば私も簡単にマリファナを含む薬物を手に入れられる環境にいたことになる。
自分はタバコすら吸わないのだからと思っていたことを理由に、必然的に薬物の登竜門となるマリファナを遠ざけていたのではないだろうか。
少々夜遊びしても、私は基本夜は家に帰って寝るという生活がベースにあったこともよかったのだろう。夜中にずっと繁華街をウロウロしていたら頻繁になんらかの薬物に誘われて周りに流されていたかもしれない。
それに私は10代の頃から何かに依存するということがとても怖いことだと感じていた。自分の父親が病気になり、精神的にも危うくなり、指が黄色になる程煙草を手放せない姿を見たのは怖く嫌だった経験が私を中毒と関連するものから遠ざけていたのかもしれない。
私はそもそも結構な小心者である。だから麻薬という犯罪にはかかわりたくはないと思っていたのだろう。
未成年での喫煙と飲酒も違法だが、大人であれば合法なのだからいいではないか!と勝手な自分の中にあるルールからしても薬物はアウトだったのである。
近頃は薬物のカテゴリーによって合法だといわれているものがあるが、それはただ単に法規制が未設定なだけで順次違法になるものについては違法なものとして考えるのが通りである。
私はこのタイミング的に合法な薬物を怖いと思うのだ。違法ではないからと手を出しやすい。
マリファナも同じだと思っている。海外でマリファナが合法になっている土地でマリファナにハマってしまったら、日本でもやりたくなるのではないだろうか?
普通には成り得ることはない、ハイになるという状態を経験してしまうのを私は怖いと思う。
そういうものは知らない方が幸せだと思うし、それを知らないから損をしていると言う者がいても頑なに断ることが最終的に自分がいつまでも幸せでいれる方法だと思うからだ。
何かをすごく欲しいと思っているのに手に入らないことでがっかりしてしまう生活の方がよっぽど損をする生き方ではないだろうか。
市販の薬の過剰摂取も全く同じである。その薬自体が合法だとしても、その薬をそもそもある目的の為に規定通り接種せずに過剰に服薬してハイになることも恐ろしい。
しかし皆なぜそんなにハイになりたいのだろうか?
友人と楽しい時間を過ごし、思いっきり笑うことでも十分にハイになれるのは私くらいなのだろうか。
薬物利用で意識が高揚し、フワフワした気持ちになるのが止められないという話も聞くが、そんな自制が効かない非日常は夢の中だけで十分ではないか。
そんなことを薬物を使う人に言っても後の祭りだろう。
薬物による高揚感などを体験していないこと自体が、薬物なしで日常を楽しめる鍵である。
だから一度でも薬物による高揚感を体験してしまうと取り返しのつかない事態に成り得るのだろう。
嫌なことを忘れられるとか、楽になりたいとかが薬物を始める理由の中心にあるようだが、問題から目を反らして生きる時間を見つけてしまったら、問題解決に至る道はどこまでも遠のいてしまう!
一時的に目を閉じてその問題が見えなくなったところで問題は消えないのだから現実逃避をする前に問題解決は絶対に必要だ。
世の中には確かに辛く、大変なことが沢山あるけれど、それでも結構楽しいことはある。大きな問題があったとしても何とか片付ければ、楽しく思えることはもっと増えるのだ。
ゆくゆくは泥沼にハマってしまうような物を進める友人なら私は持つ必要がないだろうと思っている。
多くの人が仲間を失いたくないからという理由で友人に勧められるままに薬物を始めてしまう人もいるらしいがそれは絶対に誤った選択だ。
薬物使用を誘ってきた友人が本当に大切ならばそれを断り、友人にもやめたほうが良いと伝えるのが本当に大事な友人にすることだ。
一時友人関係は壊れてしまうかもしれない。それでもいつかその友人が助を必要としたら助けてあげられるように自分は薬物にはかかわらず、精神的にも安定した薬物なしの安定した生活を作ることをオススメする。
私はキリスト教の神に依存している。全ての必要なものを与える、最愛の子イエスキリストさえも与える愛のある神ならば、私はこの先も大いに依存して行こうと決めている。
幸いにも私は同じように考える友人をキリスト教会を通して沢山作ることが出来た。
神が中心にいる教会を私の人生に与えてもらい、共に笑い泣き励ましあえる友人達をも与えてくれる全能の神に出会えたことが私の人生にとって実は一番の幸運なのである。
独りぼっちが辛くなった人、正しいことを選んでいるはずなのに友人を失い寂しい思いをしている人、辛いと思うことを抱えている人、そして嬉しいことを他の人と一緒に喜びたい人には神の愛があるキリスト教の教会へ出向いてみてはどうだろう。
幾つもの教会に行ってみないと、自分にあう素敵な教会には出会えないかもしれないが、私は神に頼り愛のある教会を拠り所にして、まだ知らない恵みのある幸せに皆が出会うことを心から願う。