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責任を伴う良し悪しの分別を養う

暮らし話

日々新しい細かいルールが私たちの生活に追加されているように感じる。

この数年だけ見ても確かにルールは増えているし、今後も当然の様にあちこちにルールが増え続けるのだろう。

しかし、それらは本当に必要なルールなのだろうか?

私としてはむやみやたらにルールを増やしてほしくないと心から思っている。

ルールを新たに次々と増やすよりも、個人が責任を伴いつつ良し悪しの判断能力を研ぎ澄ます方へと進めてほしいと思うのだが、どうも世間はそういう風には進んでいないようだ。

”より良き社会へ”という考えをもとに考えてルールを作っているのかもしれないが、ルールが増えたからといってよい社会は出来るわけがない。

今年になって唐突に自転車のヘルメット着用をルール化している。しかも中途半端に努力義務なんて言っている。

自転車は昔から多少の危険を伴うものだが便利なものとして多くの人が利用してきているが、なぜわざわざ今更ルールが作られなければいけないのだろう?

私たち日本人が物事の判断を出来ない人々になってしまったということなのだろうか?

今更自転車に対してルールを追加していることにどうにも納得がいかない。

私はロードバイクに乗り車道を走るので自分の身を守るためにヘルメットを着用している。

チャイルドシート装着のママチャリに乗る全員にも私自身はヘルメットは必要だろうと考えているが、子供を持つ親は自分で危機管理をし、自己責任のもと行動していないのだろうか?

事故が起きたとき、自分や子供がヘルメットを被っていなかったことについて誰か他人を責める世の中になっているのだろうか?

私には以前から存在しているルールの中には、長年受け入れられないものがある。

そのひとつは「公共交通機関車内での携帯電話通話の禁止」についてだ。

「携帯電話での通話を控えるように」と車内アナウンスをし、日本人の乗客の多くが既にそのルールを守るべきものとして受け入れている。

しかし私はなぜ公共交通機関に乗車している間、携帯電話の通話を禁止をしなければいけないのか理由が分からないし、ただ「はいそうですか」とは言いいたくない。

混雑している電車内で通話を控えるようにというのは理解できる。ぎゅうぎゅうの満員電車内で数センチ先の人が電話で話していたら唾が飛んでくるかもしれないし、確かにそれは誰だって嫌だがそもそもそういう感覚は皆持っているんではないだろうか?

しかし、混んでいない電車内での通話だったら、何の問題があるのかが分からない。

私は空いている電車内なら「通話してもいいじゃないか!」と思っている。

移動の最中に電話で行き先を確認するとか、誰かとお喋りをしながら移動することになんの問題があるというのだろう?

グループで出かける時に、遅れてくる人がいた場合、先に電車に乗ってるグループと、追いかける人とで電車に乗っている間も連絡を取り合いたいことだって沢山あるではないか。

知り合い同士で電車に乗った人達は会話を出来るのに、なぜ電話だとダメなのか私には理解が出来ない。

電話だと片側の会話内容しか聞けず、周りがもやもした気にさせられるから電話通話が禁止という理由ならば、私はスピーカーフォンで話してもいいとさえ思ったくらいだ。

杓子定規に「公共の乗り物車内の通話を控える」ことが重要になっていて、車内での通話は条例で禁止されている公道での喫煙よりもタブーになっているような気がする。

かなり空いている電車でも、実際携帯電話で通話をしていると「車内で電話は禁止ですよ」とわざわざ声をかけてくる人もいるらしい。

私の友人で電車で通話をしていて実際に何人か注意を受けた人達がいる。

間違えた電車に乗ってしまいプチパニックな状態で携帯で友人に助けを求めていた時、空いた電車だったというのにそのルールをわざわざ言いに来る人がいたらしい。

しかしきっとその相手がイカツイ感じの人には言わないのだろう。

新幹線のような長距離電車であれば、携帯電話で通話する場所としてデッキを提供してくれているが、在来線に乗っている場合だとそういう逃げ道を用意してくれてはいない。

「移動中に情報を集めたい」、「待ち合わせしている人に連絡したい」と思っている人が多数いるはずの在来線では基本通話は一切禁止としているので何とも納得がいかないのだ。

私はそれぞれが臨機応変に対応できるように、もっと柔軟さが欲しいのである。

一日も早く「混雑時は社内での通話をお控えください」という感じのものに変更してほしい。

「どういう状態を混雑というのか定義してください」という人が出てくるのかもしれないが、その辺は一般的な判断を個人に求める社会にすればいいのだ。

混雑している車内では新聞を広げて読む人がいないのと同じような感覚だ。もし車内で新聞を広げて読む迷惑な人が増えてしまったら、社内で新聞を読むことを禁止するのだろうか。

社会の中に正しい決断し責任を持てる人が増えることも必要なことである。

個人の裁量で見ず知らずの人に対しても、その人の行動に疑問があれば「考え直してほしいんです」と悪意なく声をかけれる人が一定数いる世の中になれば規則を増やさなくてもどうにかなりそうだが、どうも今の社会は真逆に進んでいる。

見ず知らずでも、知り合いであっても何かを注意しようとすると「傷害事件になりかねないので、しかるべき人に介入してもらおう」という社会の動きが強い。

こんな社会になってしまっては、もう全てが杓子定規にしか勧められなそうだ。

ここまで携帯電話が普及したのだから、私としてはこのルールはもう少し柔軟に変更して、状況に応じて公共交通機関の車両内の通話の禁止を考慮してほしい。

海外で在来線の電車やバスに乗っていると、かなり自由にスピーカーフォンにして携帯電話で通話しているし、スピーカー状態にして自由にスマホのYouTubeなのか、サブスクのドラマなのか動画を見ている人もいる。

他国ではあまり公共交通機関での携帯電話通話やスピーカーの利用を規制していないようだ。その為か他の乗客もそういう状況を気にしていないようにみえるのだ。

しかしラッシュアワーや混雑した公共の交通機関に乗車している時は、殆どスマホスピーカーから流れる音は聞こえない。乗客それぞれがマナーを考えて行動をとっているのだろう。

交通機関の車両内通話についてはこれだけ厳しく対応しているというのに、他のルールは効果の意味もなくポスターが貼られ、人を配置し、呼びかけだけを行っているケースもある。

最近目にするのは「エスカレーターは歩かず、止まろう」というポスターだ。

幾つもの駅でそのポスターを見るようになったし、一部の駅では呼びかけ員まで配置しているというのにもかかわらず殆ど誰も守っていない。

他にも「スマホ歩きは止めよう」と言うポスターを見るのだが、実際にスマホ歩きを止める人は今後も減りはしないだろう。

それなら私はいっそのこと「スマホ歩きは視界が狭くなるので、視野を広げるよう!」とか、「スマホ歩き事故は、あなたが責任者”」と呼びかけ内容を変え、スローガンを変更したらどうだろうかと思うのだ。

日本特有な気がするが、ルールそのものについて考えて行動しているわけじゃなく、国民の大部分が守っているかどうかで、そのルールの順守率が高くなるようだ。

多くの人が守り始めてやっと皆が「このルールを守らなければ!」となっているように見える。

個人がルールに対して自己責任を考えて行動を取るという能力が欠けているのかもしれない。

結局は安易にルールを作っても、その問題に直結する行動のみを禁止するだけでは、人も社会も成長しないのではないだろうか。

一部の人の行動を制御するために、全員に新しいルールを与えて公平性というのものを保とうとしているのであれば、それこそいい迷惑である。

その一部の正しい判断を出来ない人への説得が難しいからといって、全員に対してルールを新設して解決しようとしているのであれば、それは即刻やめてほしい。

このまま細かいルールをどんどん作られては息が詰まると思うのは私だけなのだろうか?

総括的に良い社会を目指したいというのであれば、ルールを作り続けるのではなく、時間をかけてでも自己判断能力を高めるような教育を国民にするほうがよっぽど効率的で理にかなっているはずだ。

日本では自分の周りにいる人の行動が重要な判断材料になってしまっている風潮があるが、それでは本当のモラルある成熟した社会へはなかなか成長しないだろう。

そのいい例としてコロナ騒動後、健康上の心配とは関係なく周りからの視線を気にしてマスクをし続けていた人たちが沢山いた。

社会的に大部分の人がマスクをしているなか、自分だけしないのは気まずいという理由でマスクをしていた人がどれだけいたか分からない。

このマスク現象からも物事に対する個人の良し悪しの判断が、周りの目が気になるということに完全に負けてしまっていた。

こういう部分からも今の日本には、それぞれの大人が自ら”良い”と”悪い”を理由をもって判断できる基盤づくりが必要だと思うのだ。

皆がやっているから良いとか悪いなんて判断からは良い社会は絶対に生まれない。

国の上にいる方々にはぜひ、新しいルールを次々作ることではなく、古いルールを見直しつて総括的に国民力が上がるように、妥当な教育と基盤を与えて日本社会に貢献してほしい。

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