私には人生の支えになっているものがある。
それは”キリスト・イエス”である。
英語圏だと”キリスト・イエス”は、”ジーザス・クライスト”と呼ばれているが、全くの同一人物である。省略バージョンだと日本では「イエス様」、英語圏では「ジーザス」と通常呼ばれている。
「イエス様」だと、どうも他人行儀で距離感を感じるのでこのブログでは「ジーザス」と呼ぶことにする。
私が20代の頃、実は私はこのイエスとジーザスが別人だと思っていた。名前がふたつあるという事実を知った時は軽くイラっとした。「なぜ同一人物の名前が国によって変わるのか!」と。
発音の違いによる影響だろうが、”最後の晩餐”の絵に描かれたジーザスの12弟子達の英語名と日本語聖書の名前も殆ど違っている。
英語ー日本語で並べると、”マシューはマタイ”であり、”マークはマルコ”、”ルークはルカ”で、”ジョンはヨハネ”なのだ。現代人で、ジョンさんという欧米人が来日した場合、誰も彼をヨハネさんとは呼ばないではないか!ということで私は納得がいかなかったのである。
しかしヨーロッパや中東の男性にはマタイも、マルコも、ルカやヨハネという名の方々が結構いるのだろうから何でも日英で考えてる必要はないのだと考えさせられる。
英語と日本語の読み方が違う理由は、日本はポルトガル宣教師が伝えた音がベースになったからだろう。アルファベットを使う国では音ではなくアルファベットの文字列をベースに広まってに、現地での読み方が定着したのだろうと推測する。
私は大人になってからクリスチャンになった。
私はジーザス・クライストを神であり、自分の救い主として受け入れると告白してクリスチャンになったのである。
それ以来、このジーザスが私の果てない希望となり、私の歩む道を照らしてくれている。
ジーザスとは愛する全人間が地獄ではなく天国に行けるようにと、神様が世に送ってくれた救世主だ。神であるのに人として完璧な人生を歩み、その人生を人の罪の代価として犠牲になり十字架で死に、3日目に生き返ったのがジーザスなのである。
このジーザスを自分の救い主と信じ、自分の歩みを悔い改めてジーザスと共に生きると宣言した人がクリスチャンと呼ばれている。
そしてこのジーザスが犠牲となって私たちを救ってくれたことを良きニュース”福音”と言うのである。
私は人といる時には明るく元気な人をずっとやってきているが、10代になる前から自分の中に暗い部分があったのを覚えている。私が大人になってもその暗い部分は自分にずっと残っていた。
漠然と死後の世界を考えた時は、「自分は犯罪者として実刑をうけてないんだから天国にはいけるかな。」なんてことを考え、神様というものと、この世の警察とか司法を混同し、混乱していたと思う。
「誰であっても人間は罪人で、とうてい自分の力では天国に行けない」と聞いた時、私はなぜかほっとしてしまった。自分だけで抱えている暗い部分をもう心配しなくて良いのだと思えたことは私にとってのターニングポイントだった。
クリスチャンになってからの私はキリスト教の教えをベースとして自分をもっと大切に出来るようになったと思う。私自身にあった大きな変化は、周りにの人との関り方だろう。
人の目を必要以上に気にしなくなったのだ。
私が人にどう思われているかということが対して重要ではなくなり、自分が本当に気にするべき事は何かというほうが重要になった。人がどう思うかということではなく、自分がすべきことや、良いと思えることをするようになり私の周りも変化したように思う。
「愛に満ちた全能の神様だったらどんなことを私に望むだろうか?」という風な考え方をするようになって私は生きるのが楽になった。
私自身、完璧な聖人のような歩みができるわけではないし、自分は欠けたところばかりだとはっきりと分かるようになったのだが、神様が私を導いてくれるという希望を得た。
自分勝手に行動して失敗しても、何度でも諦めずに私を助けてくれる神様が居るのだと知り、私から暗い部分が少なくなってきている。自分にはダメなところが沢山あると知っても、愛をもって受け入れてくれる神様が居るのだと思うと私の毎日には喜びが増えた。
そしてその頃から私の友達の数が激増したように思う。
キリスト教と出会った頃の私は、「私には関係ないし」と、キリスト教も数ある怪しく不可解な宗教のひとつくらいにしか考えていなかった。
そもそも宗教なんて自分の人生には要らないだろうと思っていたし、熱心に何かの宗教について学ぶということが自分の人生に加わるなんてまるで考えていなかったのだ。
クリスチャンが毎週日曜日に礼拝に行くことや、献金をすること、毎週聖書勉強に集うことなど、私には何の価値もないように見えていたのに、ここまで自分が変わったことにビックリする。
しかし、自分がクリスチャンになってからどれだけ神様に助けられ恩恵を受けてきたかを考えると当然な気もする。
仕事の分野でもクリスチャンになった影響は大きかった。私は本当に沢山の恩恵をけている。
クリスチャンになってから様々なことに対する恐怖心が緩和されるようになった。社会や会社内の偉い立場の人に対しても、自分が人であるようにその人達も同じ人であり、基本的に”対等にある存在だ”と考えるようになると、無駄にビビることが少なくなった。
仕事で行き詰まった時や困った時、私は自分の力で解決できないことも受け入れるようになった。しかしこれは諦めたり放り出すということではない
。
自分には限界がある事を認め、知恵が与えられ、助けが与えられるように祈るのである。
自分で出来る限りの事をやり続けて希望をもって神様からの助けを待つようになった。そうしていると、そのうちどうにかなることが多いのだ。
実際に自分の実力でどうにかなったとは言えないことが実に多い。途中過程の私はどうしようもない程に途方に暮れて、心情的には膝を抱え土手に座り夕陽をただ眺めてるような時もある。
そんな時も努力を続けて信じ待てば、全ての必要が与えれて目標が達成されることを経験してきた。
神様の力を借りて目標を達成するのは悪くない。自分自身が威張ることはないし、周りに感謝をするようになり、プレッシャーで仕事に押し潰される状況からも回避できている。
なんとも無責任に聞こえるかもしれないが、こんな調子でやってると、最後アウトな状態になったとしても、「なるべくしてそういう結果になったのかな?」と、その状況を受け入れるようにもなるのだ。
「常に最善が与えられるように!」と祈っていれば、自分の望む結果にならないことがあってもそれを受け入れやすくもなる。
さすがに会社への報告が、「いやぁ神様が望まなかったからですよ!」とは言えないので、「私の力が及ばず申し訳ありませんでした」と一応は謝っておくことも必要ではあるが。
加えて”傾向と対策”を提案して、心の中で「仕事は他にもあるしクビでもいいです」という気持ちで対応するのだが、まだ人生でクビになったことはない。
夫との結婚生活にもジーザスは大きな影響を与えてくれている。
夫との結婚生活は既に10年以上になるが、私たちが今も結婚生活を続けていられる秘訣は間違いなく神様のおかげである。
そもそも私たちは二人ともすごく自己中心的である。よくアレコレ揉めているがジーザスが私たちに真実の愛を示し、私たちにお互いを許し愛することを教えてくれている。
お互いに自分自身を救えないという事実を理解して、”神様に依り頼む”+”反省と再チャレンジ”を日々実行し、共存する術を学び、格闘するからお互いを受け入れて暮らしていけるのだ。
私たち夫妻はキリスト教を信じることで失うものはない。
私たちはキリスト教を信じることで得る物の方が多く、失っている部分なんてないと思っている。
毎週日曜日を教会に行くことに使っても、収入の10%をキリスト教の活動に捧げても、私たちはそれ以上に必要以上の物をいつも与えてもらっている。
誰も地獄には行きたくないはずだ。それに人生の道しるべを欲しいと思う人は多いのではないだろうか?
とするとやっぱり私はジーザスが一押しだと思うので、今後もジーザス推しで行こうと思う。