この数年山ほどマナー違反とのコメントをネットで見る。
あれもこれもマナー違反と書いてあるが、ちょっとリラックスしてもいいんじゃないかと思う今日この頃である。
世間一般にマナー違反だと言われることでも、人によって受け入れられるマナーの境界線は変わるのだ。
誰かに助けて欲しいと思ったり、誰かを助けたいと思ったら、とりあえず後先考えずに声を出せる人でありたいものだと私は思う。
アメリカでの過ごす時間が増えれば増えるほど、良くない部分を見ることも多くなるが、その分良い部分を見ることも増える。
先日アメリカでよく行くレストランで食事をしようと夫と共にお店の入り口に近づいた所で、駐車スペースに止まっていた車の運転席に座る60代位の男性から「ちょっとお願いがあるんだけどー」と、声を掛けられた。
その男性は歩行の出来ない人だったようで、夫を呼び止め「車のトランクに格納している車いすを出し、広げて車の運転席の横に置いて欲しい」とお願いしてきたので、夫は言われた通りに男性の車のトランクから車いすを出し、運転席の男性が開けたドアの横に車いすを置いた。
夫はその男性に次は何をすればいいか確認すると男性は「あとは全部自分でできるから大丈夫」と言うので、私と夫は運転席に座ったままの男性を後にし、レストランに入った。
私はこんな風に見ず知らずの人に助けを求めることが出来る海外の暮らし方に魅了される。
本当にどうしようもない状況なら、日本でも車いすに乗った人が見知らぬ人に助けを求めることもあると思うが、日本では車いすの人が誰かの手を借りないと行動出来ない場所へ、日常的に自分の好きなタイミングで出向くことはない気がする。
日本で車いすに乗る人が度々通りすがりの見ず知らずの人に助けを求めることを私は到底想像出来ない。日本は残念ながらそういう国なのだと思う。
特に何の障害も持っていなければ、日本は全体的に素晴らしく暮らしやすい安全な国だ。
だが日本は残念なことに見ず知らずの人に気軽に助けを求めたり、お手伝いをお願いする習慣がない。
駅に行けば駅員さんが補助してくれるし、お店屋さんに行けば店員さんが良くしてくれる。
日本では仕事に従事している人が手厚いサービスで対応してくれるが、見ず知らずのたまたまそこに居る他人に助けを求めたり、助けを受けることは当たり前にはなっていない。
今の日本社会では助けが必要な人が、見ず知らずの人にお手伝いや、助けを申し出ること自体、何か阻まれる感じが漂っている雰囲気がある。
古き良き日本では、もっと見ず知らずの人同士が気軽に助け合いをしていたような印象があるが、何がどうなって、見ず知らずの人同士の助け合いが日常的なものから消えてしまったのだろう?
私はこのアメリカで出会った車いすの男性のように、日本社会でも車いすに乗った人が気軽に人に助けを求め暮らせる社会になればいいのにと思うが、自分が車いすに乗る者となった時に、この車いすの男性と同じように躊躇せず、見ず知らずの人に声をかけて助けてもらう事が出来るか自信がない。
「知らない人に頼んでは迷惑だろう」と思って、お願いするのを諦めてしまいそうだ。
例え助けてもらったとしても、感謝の気持ちでいっぱいになる前に、申し訳なかったなという気持ちが先に出てしまいそうだ。
私が助ける側だったら「ご迷惑お掛けしてすみませんでした。ありがとうございます」と申し訳なさそうにお礼を言われるよりも「手伝ってくれて感謝です!ありがとうございます」と満点の笑顔でお礼を言われる方が嬉しいのに、情けない事に自分が助け貰い慣れてなく素直に喜ぶ自信がない。
必要な責任を果たし生きることは必要だが、人は1人では生きていけないと理解しているのに、何故こんなにも他人を頼ることが難しいのだろう。
私自身の結論としては、認めたくはないが自分は鼻もちならないプライドの塊なのだろう。
私も自分の弱さを十分に認めて、必要な時には人に助けてもらう事が出来る腰の低い感謝できる人になりたい。
夫と車いすの男性とのやり取りでもうひとつ印象に残ったのは、夫が車いすの男性の「もう後は自分でやるから大丈夫」という言葉を尊重し、一度「本当にいいの?」と確認し、相手が答えた「もう大丈夫!」のひとことを素直に受け取り、私達はさっさとレストラン店内に入ったことだ。
この10分後位その車いすの男性も同じ店内に入ってきて店員さんに案内され、私たちの横を車いすでスーっと通っていった。
恐らく車いすの男性は夫との会話を終えた後、自分で車の運転席から車いすに移動し、レストランの入り口のドアを別の誰かに開けてもらい入店したのだろう。
そしてレストランで食事を終えて帰宅するときにはきっと、そのレストランスタッフの一人が車のトランクに車いすを入れてくれたのだと思う。
私の勝手な想像だが、車いすの男性は一人暮らしをしているのか、家族と住んでいるのかは分からないが、自宅は車いすで楽に暮らせるように整のっていて、自分ひとりで車で出かけるのも容易なのだろう。
恐らくお出掛け用の車いすは車のトランクにいつでも入っているのだ。
家では家用の車いすで暮らし、家の中から車いすで直接車庫に移動し、家用の車いすから車の運転席に移動し、家用の車いすはその場に置いたままで出掛けるのだろう。
家に帰った時は、車庫に車を入れれば家用の車いすが出掛けた時時と同じ状態で車庫に置いてあり、一人でも難なく外出し、帰宅が出来るように暮らしが整えられているのだと想像する。
この車いすの男性はレストランに出かけ、夫に車いすを出す手助けをしてもらった後、続けてレストランの店内に入る手助けも頼むことができたのに、敢えてそうしなかった気がする。
このレストランのドアは自動ドアではないうえに2重ドアになっている。それでも車いすの男性は自分で出来ることは全て自分で行い、助けが必要な場面では多くの人に少しずつ手伝って貰っているように思えた。
少しの手伝いであれば手伝う側の負担は軽い。改めて自分が車いすで生活をした場合を想像してみるが、やはり見ず知らずの人に何かを頼むのは申し訳なく思って、頼みやすい自分の身近な家族や親しい友人に度々お世話になり、家族と親しい友達に重い負担を掛けてしまいそうだ。
それならば、やはり家族や親しい友人だけに頼らず、見ず知らずの人にも少しずつ助けて貰いながら、暮らすほうが良さそうな気もする。
数か月前に日本で車いすの人の生活についての記事を読んだ。
日本ではだいたい車いすの人が暮らす家を探すとき、その街に住んでみたいとか、好きだとか言う理由で家探しはしないという記事だ。
車いすで暮らしていく為に近所の駅には車いす用のエレベータがあり、誰の手も借りずに暮らせるエリアになのか、車いす生活を細かく調べシュミレーションし、周りも同じ考えで一緒に人に迷惑を掛けない暮らしを考えると書いてあった。
しかし、とあるヨーロッパの都市にいる、車いすの人の暮らしを調べると全然違うらしい。
車いすの人も家探しの時には単純に住みたい町に住むのだそうだ。
最寄りの駅にエレベーターがあるかどうかは関係ないらしい。最寄り駅にエレベーターがなければ、その駅に居る通りすがりの知らない人たち数人で車いすを持ち上げて移動してくれるので問題ないというのだ。
そうやって色々な人とコミュニケーションが出来るという点でも良いと書いてあった。日本では考えられないことじゃないだろうか。
私は東京に居る時には、毎日のように公共交通機関を使う。
猛烈に急いでいる時でなければ、荷物を持って階段で苦労をしている年配者がいれば「運びますよ」と声を掛ける。一度断られても、再度もう一度は「大変そうだし、手伝えますよ。」と声を掛けてみる。それで断られれば自分は先を急ぎ、手伝いって欲しいと言ってくれれば手伝う。
不思議なのは東京都区内の電車や地下鉄の駅であれば一日中、沢山の人が行ったり来たりしているのに、なぜ私が通りかかるまで誰もその年配者へ手伝いを申し出なかったのだろう?ということだ。
みなスマホに夢中になっていて、まったく周りを見ていないのだろうか?それとも急いでいて他人の事を気にしている余裕がないのだろうか?
コロナ以降、見知らぬ人に声を掛けたり、人の荷物を触るのは迷惑だろうと、新しいタイプの冷たいマナーが出来ている気もする。しかし、たとえそんなものがあったとしても私は今まで通り助けが必要そうな人がいれば声を掛けるし、手伝えるなら手伝いたい。
そして一人でも多くの人に助けが必要な人がいたら恐れず、きつく断られてもいいから「手伝いますよ」と声を掛ける人が増えて欲しいと思うのだ。
一日も早く、日本でも車いす生活を送る人達が、面倒な予定をいちいち立てずとも、気が向いたときに好きなことを好きにでき、通りすがりの見知らぬ人に気軽に助けを求め、周りもそのお願いを気軽に応えてくれるようになって欲しい。
複数人の手が必要な時は、初めに手伝うことになった人が、さらに周りを行き交う見知らぬ人に、「ちょっと手を貸して!」とお願いできる、他人同士が協力しあって誰かを支えることが日常的にある社会になったら、日本は今よりもずっと温かく良い国になるのではないだろうか。
明るく暮らしやす日本になるために
- 断られることもあるが、めげずに助けが必要か声を掛ける
- 部分的にのみ助けて欲しいという人の意向を尊重する
- 人を頼ることを遠慮しすぎず、助けてもらえたら感謝する