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年老いた両親をサポートする

日本暮らし

私の両親は70代半ばで、まだまだ元気に暮らせる年齢だろう。

しかし私の父親は長いこと患っている病気のために、実年齢よりもずっと年老いて見える。昨年からは体の自由も殆どなくなり、近頃は認知症の症状があり、それがなんとも厄介なのだ。

私の両親は定年を迎えてから二人で新しい土地に移り住み暮らしている。現在は母親が全面的に父親の生活をサポートする毎日だ。

母親は昨年まではスポーツクラブに通ったり、友達と出掛けたりしながらそれなりに楽しく暮らしていていたのだが、父親の病気と体の不自由に加え、認知症の発症を見せ始めて母親の暮らしは突然自由が殆どない暮らしに変わってしまった。

正直な所、我が家は父親含め誰も父親が認知症を発症することを全く想定していなかった。誰もが認知症を発症する前に父親の体の方が限界を迎えると思っていたのである。

とはいっても父親の認知症は、まだまだ初期の段階なのか相当にまだらだ。一日中まともな日もあるが、ある日は朝から晩まで思考がどうかしてしまっていて、全く理解できないような被害妄想に溢れた発言をして、周りを困らせるのだ。

父親は週に3回必ず半日の時間をかけて病院で人工透析を受けるのだが、認知症が出て来てからそれが更に厄介になった。今までは母親の良い休憩時間だったその時間が真逆のべったり付添時間となってしまった。

認知症が出はじめた父親は酷い被害妄想発言を繰り返して周りに面倒をかけるのだ。

その被害妄想がかなり目に余るので、私は認知症患者の被害妄想の対処法というものをインターネットで調べてみたのだが、認知症患者の被害妄想には同意をしてやり過ごすのが一番だと書いてある。

しかしこの対処法は私の父親にはとても現実的ではないように思える。

私の父親は人工透析の治療をしてくれる病院の先生・看護師さんやスタッフの治療や対処を間違えていると訴え、勝手に人工透析のスケジュールが変更したのだと現実とは違う自分勝手な主張をするのだ。

そんな現実からかけ離れた父親の主張に同意して医療に口出しするわけにもいかないし、早朝に勝手に病院に連れて行くわけにはいかず、とても同意できないまま会話が進むと、父親が1人ブチギレるという状態になる。

幸いにもと言っていいのか分からないが、体の自由が利かない父親が危険人物となる可能性は少ない。なので父親には車いすかベッドの上で気の済むまでブチギレてもらい、そのまま落ち着くまで放置することにしている。

しかし体の自由が利かないというのは本人だけではなく一緒に住む家族にも負担が相当大きい。

父親は夜中に寝れないことが多く、夜中になると数時間おきに母親を起こし、やれ水を飲を飲みたいとか、体を起こして欲しいと夜中でも呼び鈴を鳴らし、時には夜中でもベッドからリビングに移動して休憩をしたいのだと希望し母親は介助してあげるらしいのだ。

父親は睡眠補助が必要なのだと睡眠薬を主治医に出して貰っているのだが、夜中にぐっすり寝ることは稀で、睡眠薬の効果が出るようにと主治医の先生は何度も薬を変えてくれるが、それでも夜中ぐっすり寝れないらしく、これまた面倒なのである。

こんな状態では朝昼晩と世話をしている母親の負担が相当重いのは容易に想像できる。

もともとかなりワガママな父親に、認知症の影響も加わったその言動を見かねて人工透析をしてくれる病院の送迎は諦め母が自らやるようになり、そのうえ人工透析中にも被害妄想やワガママを連発する父を見かねて人工透析の処置を含め母親は付添も始めたのだ。

見かねた私は父親には施設に入ってもらおうと提案してみたが、それはまだ両親には先の話のようである。一人で介護をするには負担が大きすぎるように思うが、まだこのままでいいのだと母親は言うのだ。

家族や伴侶の為に努力や我慢をすることは美徳だが、今のままだと母親のライフクオリティーが全くない。最近では家を30分空けることすらしていないというのである。

母親はほって置いたらきっと自分の限界まで24時間介護をするタイプなので、私はそれを阻止する為にも率先して父親を施設に入れようと提案したのだが、そんな簡単な話ではないらしい。

母親にとって今は毎日をなんとか回すことで精一杯だから、とても父親の施設への入居を検討する余裕もない状況なので、とりあえず愚痴を聞いてサポートしてくれるのがベストだ戒められてしまった。

そもそも私は両親と一緒に暮らしていないし、父親の面倒を見ているわけではない。だから母親が暫くこのままでいいというなら結局そうするしかないのである。

とりあえず私は口出しはせず、このまま遠くから両親の見守りを続けることにした。

医療が進み、豊かな知識も容易に得られ、食生活も充実して長生きできる世の中になったのは良い事だが、これからの社会は一体どのようなものになるのだろうか?

これからは更に高齢化社会の道を進み歩むが、きっと私の母親のように自分の限界まで自分で家族の介護をしようとする人は減るだろうから、施設を必要とする人口はきっと更に加速するのだろう。

それでも私は安楽死を良いとは思ってはいないし、それを導入するのも反対である。

生命は神の司るもので人は生まれることも死ぬことにも権限を持ってはいないと信じている。

私達人間は何らかの理由で生かされていると思うのだ。

今日の新聞にとても興味深い記事をみつけた。

認知症を発症する15年程前から血液検査で90%将来認知症を発症するかどうか判断出来るのだそうだ。

このまま医療が進んで認知症を発症する原因を除去することが出来たらこの先の超高齢化社会にも少しは希望が持てるのではないだろうか。

私は父親に認知症の症状が出なければ両親に施設に入居することを進めることはなかっただろうと思う。我が家のケースと同じように認知症さえ発症しなければ介護施設を必要とする高齢者はグンと減るのではないかと思うのだ。

認知症という脳の障害だけでも私達の超高齢化社会からなくなれば、オンラインサポートネットワークを利用してつつ地域のサポートを得ながら高齢者もかなり程度自立した生活を送れる社会が機能するような気がする。

私達市民の希望はどうも医療の進化によるもので、政治家がもたらす社会の仕組みではなさそうだ。

しかし私の予想を裏切って、政治家が明るい社会の仕組みを作り出してくれることは大歓迎である。

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