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タフで打たれ強い護”心”術を身に着ける |高卒女のキャリアブログ

スキル術

この夏、アメリカの家のフェンスに巻き付いてしまった雑草取りに苦労した。

地上から這い上がったツタは、木製のフェンスに沿って上へ上へと成長し、そのつツタは地上1.5メートルの高さあたりまでくると、ツタから直接根っこを生やし、フェンスにガッシリ張り付いていた。

フェンスの上の方から丁寧にツタを引っぺがし、土の中に続く太く何処までも根を張る雑草の力強さと、その生命力に脱帽する。

健全な精神で図太く生きる

お邪魔虫である雑草がこれだけ図太く生きているのだから、私たち人間が全員図太く生きてもいいんじゃないだろうか。実際のところかなり図太く生きていると思うが、確固たる揺るがない健全な精神が必要だと思うのだ。

ただ図太く生きるだけでは、ただの自己中ヤローになってしまう。しかし、健全な精神を持てば、自分だけでなく、周りもに良い影響を与えられるのでないだろうか。

健全な精神に不可欠なものといえば、自己肯定である。何をもって自己肯定をすればいいか?と悩んでしまったら、「自分がこの世に生まれ、生かされれるべき存在であるということ」をまずは頼りにすればいい。

この世に生きる全員が、自分と同じ条件を持ち、平等なものであると認識するのである。家族構成、学校や職場での組織構成などはおいておいて、基本的に自分は誰かより優っているわけでもないし、、誰かより劣っているわけでもないのである。

精神的な強者になろう

近頃、ハラスメントやら、多様性やら、様々な新しい言葉が公用語になり「弱さの主張をする時代になった」と感じる。

弱い立場が守られる良い社会を作る取り組みなのだろうが、そこに根本的な解決はあるのだろうか?

「弱いものが強くなることは不可能なのだろうか?」と私は疑問に思う。肉体的ではなく、精神的な強さの方である

イジメと言われるような類の出来事は、子供社会の学校などに限ったことではなく、社会人の集団にもイジメはある。主婦や町内会のようなグループにもイジメと言われるものが存在する。

その中には本当に、他人の助けが必要なほど深刻なイジメやハラスメントもあるとは思うが、軽度の物なら、私は直接被害を受けた本人がそれを一蹴することを出来るようにならないだろうか?と考えるのだ。

イジメの被害者にならない選択

「自分が生かされている者であり、自分を認める力は、自分を守る力」でもある。

イジメを一蹴するには、しっかりとした「自己肯定」が必要になる。子供の場合、親が子供本人の価値を日頃から口頭ではっきりと教育しなければ自分が自分である肯定を得る事は難しいだろう。

日本に居る多くの大人自身が、そういう教育をしっかり受けていること自体が少ない事を考えると、自分の子供を教育するのも難しいかもしれない。

それなら、親子そろってイジメに向き合ってみる価値はあると思うのだ。

イジメは、被害を受けた側に、「イジメられている」という認識が発生することによって成立すると思う、加害者側はソレを認識し、エスカレートするのだと思う。

それならば早期に解決できるように日頃から、まずは対峙する思考の訓練が必要だと思うのだ。

(肉体的暴力を含む場合や、常識を逸脱したイジメは、イジメというより刑事事件になるだろう。その場合は早急にしかるべきライフラインに助けを求める。)

解決の無い思いやり

私は自分の職場で、精神的に弱り、辞めていく人を何人か見てきた。

どんなケースであっても、自分が窮地に追い込まれたと感じたことを誰かに話せば、多くの場合、「あなたは悪くないよね」と周りから優しく言ってもらえるんじゃないだろうか?しかし、周りは、本心から同意していなくても、あたり障りがないようにそう言うのだ。

しかし、周りから同情され、自分は被害者だと信じ、その延長線で仕事を辞めることで問題を解決しているとしたら、その人は失うものが多すぎるんじゃないだろうか?

被害者である人は、辛い仕事環境から解放されたら、それで本当に幸せなんだろうか?

同情を得ても仕方がない

イジメや、ハラスメントを受けたと訴え、周りが同情し「あなたは悪くない」と言ってくれても、誰もその後のことについて責任なんて取ってくれないのだ。

同情心で「可哀そう」とか、「許せないよ」と言ってくれても、その人達は、何か責任を取ってくれるわけではない。自分が、窮地から解放されるために会社を辞めた時、生活に困ったと話しても金銭的にサポートしてくれる人なんて殆どいないだろう。

「言葉で慰めてもらい、傷ついた気持ちを癒し、気持ちを落ち着ける機会を得たい。」という一時的なものであれば支障はないだろうが、離職をして次の職場で同じ状況になる可能性があるなら、本当に必要なことは何か、よく考えてみる必要がある。

真の解決策を探す

同情を得て仕事を去るよりも、問題となる状況に対応する能力や、難しい人との接し方を習得して、仕事を継続するすべを得る方がよくないだろうか?

人によっては、優しい家族や配偶者が、将来何の心配もないように護ってくれるケースもあるかもしれないが、そんなのは一握りの人にしか、存在しないだろう。

最終的に、より良い条件で転職先があるから転職しちゃうというのもアリだが、問題があるからと言って去るだけでは、本当の問題を解決しないまま、生きていくことになってしまう気がするのだ。

世間には、嫌な奴というのは山ほどいるのだ。嫌な奴と共存する方法を得ておくことは必ず必要なことなのである。

訓練すればタフになれる

私はもともと能天気な性格だし、それなりに周りの人と上手くやれる方だと思う。しかし、30代前半位までは、怖そうな人、激怒している人に対面すると、怖くなり何をしていいか分からなかった。

怒られることも、詰め寄られることにも恐怖心を持ち、身も心も委縮してしまっていたが、そんな私にも転機があったのだ。

それは、夫との長年に渡るタフな暮らしである。

逃げ場のない愛ある結婚生活

夫とは、私が20代半ばの頃に出会い、30代で結婚生活が始まった。私達は、その生活の中で、コミュニケーションの違い、文化の違い、数々の意見の食い違いや、喧嘩があり、私は精神的にものすごく鍛えられたのだ。

夫は夫婦喧嘩が起こると、解決するまで諦めることなく言葉での説明を要求するタイプなのだ。

私はというと、揉めごとは苦手で、なぁなぁにしておいて時間と共に揉めごとがあったこともウヤムヤにしたいと思うタイプである。

しかし、揉めごとが起こり、私が水に流そうとしても、夫はお互いにある程度納得する地点に辿り着かなければ、絶対に諦めないのだ。私が悪かったとひとこと言うだけでは、ダメなのである。

夫は、問題が起きたらその場で解決への論議をし、解決するまで二人で離席せずに早急解決を要望するのだ。

逃げは解決にならない

確かに夫のやり方の方が絶対的に建設的なのだが、日本語であったとしても気持ちを言葉にして上手く説明できない私にとって、夫のやり方は心から面倒だと思い、何度も話し合いの放棄も試みた。

私は現実逃避して、何度かプチ家出を強行したこともある。結婚後はずっと都心に住んでいたから、朝まで営業しているファミレスには何度もお世話になったし、スーパー銭湯のお世話にもなった。

しかし、逃げは全く何も解決はしてくれないし、良く言っても、逃げは解決に向かう為の休息でしかないと、何年も経ってから気づいたのだ。

夫と出会う前の人生においては、「あ、やばい気配!」と思ったら、私は嗅覚を働かせ、その場からそそくさといつもすぐに逃げ出していた。

ところが、私たちの結婚生活には、そんな選択肢ははじめから存在せず、がっちり詰め寄られたのである。私は、まるで取り調べ室に拘束された犯人さながら、自供を要求されるような気持ちにさせられ、私にはすごくストレスであったことは間違いない。

肉体的な暴力は全くなかったが、夫の「超ド直球メッセージ」は、小心者の私の心にグサグサと刺さり何度も気持ちが折れてしまい、話合いどころではなかったのだ。

夫には、私が圧迫した気分にさせられるのだと話すと、「ではもっとリラックスして話せるようにしよう」と働きかけてくれたが、話合い自体が無くなることはまずなく、結局年月をかけて、私自身がある程度建設的に話せるようになるしかなかったのである。

建設的で公平な討論会

まず夫婦間に何か問題が起こると、それについての討議会が開催されるのだが、私は「どうでもいいよ。」とやり過ごそうとして、何度も配偶者としての責任を問われる事態になった。

始めの頃は、「共に考えることをしていない!」と、私に誠意がないことを怒られ、再度、物事に対する責任を放棄していると怒られるというパターン化もしていた。

夫はこの手のことに本当に根気強い人で、何時間掛かってもいいからと、自分の意見をまとめてくれと懇願し、本気の「朝まで討論会」をやって、殆ど寝ずに仕事にいったことは何度もあった。

見方によっては、出来の悪い反抗心を持つ子供(私)と、辛抱強く説得する親(夫)のような関係である。

姑息な私は、「委縮してしまった私の姿を見て、夫は可哀想に思って許してくれないだろうか?」などと狡い作戦を何度もトライしたこともあるが、夫の方が何枚も上手であった。

夫は私の気持ちが落ち着くまで、幾らでも待ち、再度ディスカッションを始めてくれるのである。まさに私は「逃げられない」状況にいたのだ。

自分の意見を言う訓練

夫婦喧嘩からの話合いに苦労し始めた頃、我が家では映画を見た後に、感想を問われる時期があった。

私にとって、そんな風に「自由な思考の感想」を求められたのは学生以来である。小学校と中学校時代に授業で「感想を発表せよ」と言われたことくらいしか、記憶にない。

「特に思う事はない」と私が返すと、夫は、「何かしら思うことはあるだろう、何でもいいから言ってみてよ!時間かかってもいいから♡」と詰め寄られたのだ。そんなこともあって私は一時期、家で映画を見るのが嫌になってしまったくらいだ。

私にとっては、結婚生活を通し、夫に求められることは勤務先の仕事より難しいことが多く、一時期かなりうんざりもした。とは言え、私を大切に思ってくれている夫が相手だと分かっているだけに、私もそれなりに頑張れたのである。

本来であれば、このような訓練は子供の頃に親から受けているべきであることな気がするが、私は受けていなかったし、日本ではこの手のことが遅れている気がするのだ。

やるべきことをやるとか、規則を守ることはしっかり教育され、身についているのに対し、自分の意見を述べることや、怒りや悲しみの感情を落ち着いて話し合う教育を受けていないケースが多い。

自分が完全に受け入れられた環境で、心が波立つことを話し合う力を得るには訓練が必要なのだ。

人間の順応性は高い

時間は少々かかったが、私は次第に要領を得て、自分の意見を言えるようになった。慣れた頃には、私はむしろ自分の考えを聞いてほしいとさえ思うようになったのである。

映画の終盤に夫が眠りこけてると、私は自分の感想を言えず、不完全燃焼だったくらいだ。

私は夫との結婚生活を通して、「泣き言をいい、逃げ去る」行動パターンの出現率をガツンと減らした。今も「逃げ出したい」と思わないわけではない。ただそれを行動に直結させないことが増えただけだ。

そして、この辛く大変な愛ある「問い詰められトレーニング」を通し、私の社会生活は楽になった

ちょっとのイザコザだったり、少々大きな声で詰め寄られる位なら、私は萎縮せずに、冷静に受け答えが出来るようなり、意地悪い同僚や上司がいても上手く対応出来るようになったのだ。相当な進歩である。

自分に誤りがあれば謝るし、悪い事をしていなければ謝らないことも覚えた。

私が誰かの気持ちを傷つけてしまったことについては謝るし、相手が納得するまで真剣に話す態度を示すことをするようにしている。

正義は何かを考え口を開く

卑屈に物事を考えない努力をし、合理的に物事を考えられるようにして、逃げる必要もなくなった。

自分に非がないような状況で、一方的に高圧的にガンガン言ってくる人がいたら、多少は言い返さないと、真実がなんだか分からなくなってしまうので、冷静に言い返えすことも覚えた。

時には誤解があるだけかもしれないが、とにかく一方的に攻められるような状況は、精神的な負担も大きい。心身ともに健全を保つためにも私たちは落ち着いて正しいことは何かを盾にし、相手に立ち向かう勇気が必要なのである。

自分が正義であることを考えるよりも、何が正義なのかを考えて行動すればブレないはずだ。

世知辛い世の中を渡る術

社会には不必要に怒鳴ったり、イライラスイッチが入って、いじめっ子になる人がいる。

そういう人に、こちらが一度でも委縮した様子を見せると、その人のいじめっ子精神に火が付いてしまう場面を何度も見てきた。多くの場合は、それが常習化している様子も長く見てきた。

そんな境遇に陥った被害者たちは最悪、病気療養期間を経て退社していく。だから私は、彼らが次の会社で同じ状況に陥った時にどうするのだろうと疑問に思うのだ。

私はどの会社でも厄介な偉い人を見てきたし、各会社にいじめっ子上司達は存在していた。どの社会には結構な数のいじめっ子がいるのだから、有効ないじめっ子対策が必要だと思うのだ。

実際、私は夫にとても感謝している。対人関係で恐怖心に負けなくなったのだ。

今でも私が人に詰め寄られた時に委縮していたら、耐性がなかったら、対処法を知らなかったら、きっと今の「キャリアわらしべ長者の道」もなかっただろう。

私は自分の経験を通し、弱い立場にある人に対して本当に役立つものは「安全な状況での詰め寄られ対処トレーニング」じゃないかと思うようになったのだ。

職業訓練校のプラグラムに、技術以外の項目で、「パワハラ上司や同僚に対するトレーニング」があってもいいんじゃないかと。

「弱者を作る状況はあってはいけないし、そんな体験は一生したくない!」と思う人も沢山いるだろうが、それはやはり理想論だと思うのだ。

私は誰かに怒鳴られても、自分の外にある正義に心を置き、冷静でいれる精神の安定を持って、仕事ができてこそ、この社会に必要な生き抜く術ではないかと考えるのだ。

だからこそ、誰もが、弱者にならない努力、訓練が必要であると思うのである。

会社の同僚・上司だけじゃなく、客や自分が関わる大小の団体に対し、「詰め寄られ対処術」は生きていく為に必要な護”心”術ではないだろうか?

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